加藤享 説教選 旧約

創世記

創世記1章1-31 天地を創造された神 2017年7月2日川越教会
創世記1章1-5 27-31節 素晴らしい命の言葉 2014 年6月1日川越教会
創世記1章1-5 光あれ 2011年5月1日川越教会

2007年9月9日大宮教会
創世記1章31-2章4節 出エジ20章8-11節
 普段と違う日を過ごす大切さ
[聖書]創世記1章 31 節~2 章 4 節神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。 これが天地創造の由来である。
〔聖書〕出エジプト記 20 章8~11節安息日を覚えて、これを聖とせよ。 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。[序]喜びの礼拝

今日は大宮教会の日曜礼拝にお招き頂きまして、有難うございます。大宮教会はバプテスト連盟の出版部門ヨルダン社で、編集者として活躍して来られた坂本嘉親先生が献身して牧師になり、浦和教会の伝道所として発足したのですね。ヨルダン社時代の坂本先生の周りには青年がよく集ってわいわいやっていました。私は目白ヶ丘教会で育ちましたが、神学生時代に大久保のお宅の仲間に入れていただいたことがあります。私は 30 才になる直前に神学校を卒業し、目白で副牧師修行を 3 年弱させていただいてから、札幌教会で 30 年余働き、63 才からシンガポールで宣教師 10 年、シンガポール国際日本語教会を建て上げて帰って参りました。その時連盟の諸教会の皆様に祈り、支えて頂きましたことを心から感謝申し上げます。帰国後は、全国を巡回して報告しましたが、一段落しましたので、この 1 月から川越の臨時牧師として、教会再建に当たっています。川越も浦和教会の伝道所として、大宮より 9 年後の 1968 年に伝道を開始し、一頃は 70 人の礼拝を守るまでになりましたが、その後衰退して礼拝が 10 人を切る所まで落ちてしまいました。しかし今年のクリスマスには 20 人の礼拝に、そして来年は、30 人の礼拝の群れに戻ろうと、祈りを合わせています。どうぞご加祷ください。礼拝堂に書道家の菊池さんに聖句を書いてもらい、掲げました。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)。 10 人で礼拝を喜んで守るようにしていたら 8 月の終わりあたりから、神さまが新しい人を連れて来て下さり、なんと 20 人を超える礼拝を続けて守ることが出来たのです。びっくりしました。多くの人が魂に渇きを覚えているのですね。礼拝が命のオアシスになると、命の水を求めてオアシスに集って来て下さるのですね。嬉しいことです。[1] 仕事を休む日
モーセの十戒の一つに「安息日を覚えて、これを聖とせよ」があります。ユダヤ人たちはこの戒めを大変大事にしました。なにしろ彼らは、キリストと自称するナザレのイエスが安息日厳守の律法を破っているのは許せないと憤って、遂に十字架刑にしてしまったのですから、その思い入れたるや並々ではありませんでした。へブル語で「安息」shabathは[やめる・やめさせる・静まる・静める、安息する・休める]という意味を持つ語です。そこから「安息日」shabbathという言葉が生まれました。ですから安息日とは仕事をやめる日・静まる日・休む日です。どうして仕事をやめる日が必要なのでしょうか。出エジプト記 23:12 にも「これはあなたの牛および、ろばが休みを得、またあなたのはしための子および寄留の他国人を休ませるためである」と繰り返されています。「休ませるため」を新共同訳は「元気を回復するため」と訳していてこの方が良い訳だと思います。直接に労働に当たる人たちや家畜にゆっくり休みを与えて、元気を回復させるためでした。労働者の権利とか人権意識が確立していない社会では、雇い主が奴隷をこき使って使い捨てにしていくのが普通でした。それが 3400 年以上も昔の時代に、どうしてこんないたわりの心が強調されたのでしょうか。十戒は出エジプト記と申命記に記述されていますが、申命記 5 章の方の十戒には、その理由がこう記されています。「あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない」(申命記5:15)。
自分たちもかつては奴隷だった。でも神さまに救っていただいた。だから神さまは私たちに、今辛い立場にある者をいたわれと望んでおられるというのです。
この心はとても大事ですね。私は今でも剣道の稽古を続けていますが、5 年前に東京の或る大学の名門剣道部で、4 年生が付け人の 1 年生を殴って殺してしまった事件が起こり、その剣道部は 4 年間廃部の処罰を受けました。「1 年虫けら、2 年奴隷、3 年人間、4 年神さま」だったそうです。焼きを入れられ痛めつけられても這い上がってくる者が強くなると言うのです。付け人を殴って死なせてしまった 4 年生も、きっと虫けら扱いの中から這い上がって「4 年神さま」にたどり着いたのでしょう。でも彼は完全に間違っていました。自分がつらい思いをいやというほど味わったのですから、後輩をいたわるべきでした。それに神さまになったら下の者を虫けら扱いに出来るのでしょうか。聖書の神さまは違います。痛めつけてよい虫けらや奴隷などいない、どんなものも大事にされなければならないとおっしゃっています。どうしてでしょうか?[2]安息日に込められた喜び
聖書は全 66 巻1700ページ余の書物ですが、「はじめに神は天と地とを創造された」という言葉で始まります。神さまが混沌と闇の状態から、第一日目に光を、第二日目に空と海を、第三日目に地と植物、第四日目に太陽・月・星の天体、第五日目に魚・鳥、第六日目に地上の生物と人間をお造りになったという天地創造が聖書の第一声です。そして神の作品の全てがはなはだ良かったので、神さまは満足して第七日目に、すべての創造の仕事から離れて安息なさった。こうして神の天地創造のみ業が完成されたのだと述べられています。
第七の日の安息は神の喜びと満足をあらわす特別な日だと言われている点に、聖書の特色があります。このように神さまがお造りになった生き物は人間を含めてどんなものでも、みな非常に良いものでしたから、痛めつけ、ひねり潰しても当然だと言われるものは何一つなかったのです。たとえ虫けらでも神さまは非常に良いものとして満足なさった神の作品だったのです。その証拠として、神さまはすべての生き物の食べ物として青草を与えておられます。魚も鳥も動物・昆虫・爬虫類もまた人間も、互いに殺し合い、食い合うことをしない世界だったのです。そこで預言者のイザヤは、救い主によってもたらされる理想の世界の回復を「おおかみは子羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏す。雌牛と熊とは食い物を共にし、ししは牛のようにわらを食う」(イザヤ11:6)と預言しています。弱肉強食は神さまが造られた世界を私たち人間が管理するようになってから生じた、悲しい現実なのです。[3]魂の休息
私たちが仕事をする、働くという場合には、作業をしている状態だけを言います。それならば神さまの天地創造の作業は 6 日間で終わったことになります。でも聖書は、「神は第七日にその作業を終えられた」。 新共同訳では「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され」と記述しています。仕事は安息をもって完成されるのです。本来は無くても良いのだけれども、主人の特別な慈悲で付け足されたプラス・アルファーではないのです。ここに仕事とは本来、作業と休息とがセットにされているものだという考えが、きちんと示されています。先程引用しましたように、出エジプト記 23 章の安息日の規定で神さまは、直接に労働に当たる家畜や人が元気を回復させることの大切さを教えられました。より良い仕事をしていくためには、休みが必要であり、良い休みが良い仕事を完成させていくのだから、安息日を守るようにとお命じになったのでした。では良い休息の取り方とはどのようなものなのでしょうか。ユダヤ人たちは、安息日には会堂で礼拝する以外は、一切働いてはならないと考えていました。ところがイエス・キリストはそのような人たちが集っている礼拝の場で、病で苦しんでいる人を幾人もお癒しになりました。「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」(ルカ6:9)。「自分のむすこか牛が井戸に落ち込んだなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(ルカ14:5)。 苦しむ者、命の危機に直面している者を助けることこそ、安息日にふさわしいというのがイエスさまの心でした。またイエス・キリストはこうおっしゃいました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11:28~29)イエスさまは「あなたがたを休ませてあげよう」とおっしゃりながらも、くびきをはずして重荷から解放して上げようとはおっしゃっていません。「あなたがつけているくびきを私のくびきと取り替えて、私に学びながら重荷を担ってごらん」とおっしゃっているのです。私たちは重荷を背負って生きていく労苦から解放されたいと願います。でも重荷を降ろして身軽に生きる人生などないのです。「私のくびきに代えてごらん。重荷を耐えられないものにしているのは、くびきが体にピッタリ合っていないせいではないか。そして働き続けよう。あなたの魂に本当の休み・平安が与えられるよ」とイエスさまは語りかけておられます。靴が足に合わないと痛くなって歩けません。それと同じです。イエス・キリストのくびきは柔和と謙遜のくびきです。「柔和」の反対語は「荒い、怒った、闘争心、悪意」です。荒々しさは心身をすぐ疲れさせます。柔和・優しさが平和と安息をもたらすのです。「へりくだり・謙遜」の反対語は「権力にある者、思い上がる者、富んでいる者」です。ですから謙遜は、神の力が働く低さ、弱さを言います。そうですね。私たちの心が荒々しくなっているからすぐに疲れるのです。誇り高ぶろうとあくせくするから疲れるのです。イエス・キリストはベツレヘムの馬小屋で誕生されました。最も貧しい誕生です。でも飼い葉桶に寝かされた御子の笑顔には、平和と恵みの光が輝いていました。またろばの子の背中に乗ってエルサレムの都に入城し、「自分を救ってみろ」と口々に罵る人々を「父よ、彼らをお赦しください」と祈りながら、十字架の上で死んでいかれました。イエス・キリストこそ、柔和と謙遜のくびきをつけて救い主の勤めを全うされたお方です。その柔和と謙遜のくびきをつけて、イエスさまに学びつつ重荷を負う時に、私たちの魂に本当の休息が与えられるのです。イエス・キリストはご自分を「安息日の主」(マルコ2:28)とおしゃいました。そうです。このイエス・キリストこそ、安息日を本当に安息日にするお方です。[結]積極的な証を
神さまは六日間で天地万物をはなはだ良いものにお造りになりました。そして非常に満足して第七日を祝福の日と定め、ゆっくり休まれました。そして天地創造の作業を終了されました。神さまは天地創造の初めから、仕事は安息をもって完成されると定められたのです。そして私たちにも、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とお命じになりました。私たちの心も体も七日目には、六日間の働きを祝福していただき、元気を回復させる安息日が必要なのです。ところが私たちの身の回りには、仕事の忙しさが続いて十分に休息を取れない、或いは責任の過重で独りで悩む結果、うつになってしまう人が、どんどん増えています。自殺する人が毎年 3 万人を超えています。働き詰めを通していたら、心と体が壊れてしまうのは当然です。今こそ私たちは安息日をきちんと守ることの大切さを、声を大にして周りの方々に訴えていかなければなりません。私たちは働く毎日から我が身を切り離して、全く違う日、安息日を持つ必要があります。そして自分が神さまによってどのように造られたものであるかを、もう一度神さまから聞き直す必要があります。
自分の人生や働きの意義を神さまからきちんと聞きとる必要があります。そしてイエスさまから愛のくびきを頂き、それを身につけて新しい一週間の歩みを始めたいものです。Blue Monday(月曜病)という言葉がありますね。土日の遊び疲れで月曜日は仕事の能率が落ちる現象です。安息日は元気を回復して良い仕事をしていくための休日だったはずです。もしも心がうつろだとしたら、神さまの祝福の言葉を聞かなかったせいではないでしょうか。イエス・キリストの柔和と謙遜にふれ、その愛のくびきを身につけて働くことを学ばなかったからではないでしょうか。時間に余裕が出たら教会に行こうというのでは、なかなか安息日を持つことは出来ません。最優先にしてその時間を生み出そうと決断しない限り、易々と礼拝を守れるものではありません。でも私たちは今日礼拝に集ることができました。感謝ですね。この礼拝で安息日の主イエス・キリストから、霊の祝福を豊かに頂きましょう。電通リサーチによりますと、日本人の10%が聖書を持ち、20%の人がキリスト教は良いと思っているそうです。また政府の調査では70%の人が不安や悩みを持っていると答えているそうです。私たちは礼拝の喜びを、家族に、また回りの方々にもっともっと積極的に証ししていこうではありませんか。 完
創世記2章18-25節 ともに生きる夫婦 2014 年6月 15 日川越教会
創世記3章1-24節 楽園の喪失-1本の木 2000年9月17日IJCS
創世記3章20-24節 楽園を失う 2017年7月30日川越教会17-7-30
創世記4章1-16節 ヘブライ11章4-6節 カインとアベル 2000年9月24日 IJCS 2000年9月24日
創世記4章1-16節 人を殺してしまう心 2011年5月22日川越教会
創世記6章5-22節 ノアの箱舟 2017年8月6日川越教会17-8-6
創世記9章1-17節 虹の契約 2017年8月20日川越教会
創世記9章8-17節 希望の虹 2011年5月29日川越教会
創世記11章1-9節 言葉の乱れ 2011年6月5日川越教会

創世記12章1-18節 人生の旅路を 2014 年 7 月 6 日川越教会

創世記16章1-16節 愚かさを繰り返した夫婦 2014 年7月 27 日川越教会

創世記22章1-19節 山上の備え 2014 年8月3日川越教会
創世記23章1-20節 人生の勲章 2008年8月10日川越教会
創世記26章16-25節 争わない優しさ 2014 年 8 月 17 日川越教会
創世記27章1-29節 思いを一つにする 2008年8月24日川越教会
創世記28章10-17節 どん底で見つけた恵み 2014年8月31日川越教会
創世記28章10-22節 人生のどん底で見た夢 2008年8月31日川越教会
創世記32章23-32節 心の闇との戦い 2011年7月31日川越教会
創世記32章23-33節 心の闇との戦い 2014年9月14日川越教会

創世記33章1-11節 和解に至る苦しみ 2008年9月7日川越教会

創世記37章1-24節 弟を殺そうとした兄たち 2008年9月14日川越教会
創世記41章25-40節 逆境にくじけず 2008年9月21日川越教会

創世記41章14‐16 25-40節 逆境を生き抜く力 2011年8月7日川越教会

創世記45章1-15節 赦せる心 2008年9月28日川越教会

創世記49章29-33節 故郷を目指して 2014年9月28日 川越教会

出エジプト記

出エジプト記1章1-21節 歴史の不思議 2015年6月7日川越教会

出エジプト記1章22‐2章10節 新しい時代の芽生え 2009年1月4日川越教会

出エジプト記2章1-10節 不思議なドラマ 2011年8月21日川越教会

出エジプト記3章1-12節 私は何者なのでしょう 2011年8月28日川越教会

出エジプト記3章1‐15節 神に呼び出される 2009年1月11日上尾教会

出エジプト記5章1-5、22-6章1節 祈りは聞かれる 2015 年7月5日川越教会

出エジプト記6章26-7章7節 頑迷な心の悲劇 2009年1月18日川越教会

出エジプト記10章1-5、13-36節 一日一日を生きる 2009年2月8日川越教会

出エジプト記12章21-33節 多くの民を救った血 2009年1月25日川越教会

出エジプト記13章17-22節 遠回りの道 2015年7月19日川越教会

出エジプト記14章5-31節 恐れてはならない 2009年2月1日川越教会

出エジプト記16章1-15節 思い悩むな 2015 年 8 月 2 日川越教会

出エジプト記16章11-21節 必要な分だけ集めなさい 2003年10月19日

出エジプト記20章15-16節 エフェソ4章24-28節 盗んではならない・偽証してはならない2002年10月13日

出エジプト記20章17節 申命記5章21節 隣人の家を欲してはならない 2002年10月27日

出エジプト記20章1-21節 最良の人生を生きる喜び July21 2002年7月21日

出エジプト記20章4-6節 神の像を拝まない―偶像礼拝の問題点 2002年8月4日

出エジプト記23章1-9節 良い社会を生み出す裁判 2009年3月1日川越教会

出エジプト記32章1-6節 人生を導く杖 2015 年9月6日川越教会

出エジプト記34章4‐10節 神さまの約束 2009年3月15日川越教会

出エジプト記35章20‐29 進んで心から献げる喜び 2009年3月22日川越教会

申命記・士師記・ルツ記・サムエル記・列王記・歴代誌・エズラ書・ネヘミヤ書

申命記5章16節 エフェソ6章1-14節 社会生活の第一歩 父母を敬う 2002年9月1日

申命記5章17節 マタイ5章21-26 ローマ12章19-21節 殺してはならない 2002年9月8日

申命記5章18節 マタイ5章27-30、19章3-9節 姦淫してはならない 2002年10月6日

申命記24章17-22節 弱者へのやさしさ 2007年8月26日川越教会

士師記2章6-19節 何を目指すのか 2017年9月3日 川越教会

士師記4章1-16節 約束を必ず果たす神 2012年5月6日川越教会

士師記7章1-8節 わずかな仲間で 2017年9月17日

士師記8章22-23、29-35節 おやじの背中―わが子への遺産 June 15 2003年6月15日

士師記10章17-11章11節 人生の明暗 2012年5月20日川越教会

ルツ記1章1-22節 どちらの道を選ぶとしても 2013年9月1日川越教会

ルツ記 ベツレヘムの優しさ 2001年12月25日

サムエル記上1章1-20節 深い悩み・涙の祈り 2012年6月3日川越教会

サムエル記上1章1-28節 涙の祈り―サムエルの誕生 2001年5月27日

サムエル記上2章12-35節 エリと息子たち―腐敗堕落を生んだ世襲制 2001年6月3日

サムエル記上3章1-18節 主よお話しください、僕(しもべ)は聞いております 2001年6月17日父の日礼拝

サムエル記上4章1-22節 神の裁き-エリの悲哀 2001年6月24日

サムエル記上6章1-7章1節 神の箱 2001年7月1日

サムエル記上7章2-17節 歴史に学ぶとは―サムエルが敗北から学んだこと 2001年7月15日

サムエル記上8章1-9、19-20節 皆と同じ道を行く 2012年6月17日川越教会

サムエル記上8章1-22節 みんなと同じ―イスラエル王制の始まり 2001年7月22日

サムエル記上10章17-27節 最小の部族から選ばれた王  2001年8月19日

サムエル記上13章5-23節 サウル王がどうしても出来なかった事 2001年8月29日

サムエル記上18章1-16節 神からの悪霊-サウルの病的な精神状態 2001年9月2日

サムエル記上18章5-16節 人生を狂わせる心 2016年6月19日川越教会

サムエル記上20章24-42節 真の友情 2012年7月1日川越教会

サムエル記上24章1-23節 信じて委ねる 2016年6月26日川越教会

サムエル記下6章1-23節 躍り上がる喜び 2016年7月3日川越教会

サムエル記下12章1-10、13-14節 許されて生きる 2012年7月22日川越教会

サムエル記下19章1節 父親の嘆き 2016年7月17日川越教会

サムエル記下24章1-17節 国を亡ぼす重い罪 川越教会2016年7月31日

列王記上11章1-13節 世界で一番賢い人の末路 2012年8月19日川越教会

列王記上17章1-16節 災害の中で生きる 2012年8月26日川越教会

列王記上17章1-24節 神の救いの働き 2016年8月7日川越教会

列王記上18章20-40節 どちらが本物か 2012年9月2日川越教会

列王記上18章20-40節 どちらが本物か 2016年8月14日川越教会

列王記上19章1-18節 挫折から立ち直る 2016年8月21日

列王記下2章1-18節 人生のバトンタッチ 2016年9月4日

王記下2章8-15節 火の戦車と共に 2011年1月23日川越教会

列王記下13章14-19節 力の限りを尽くして 2011年2月6日川越教会

列王記下20章12-21節 人生のつまずき 2011年2月27日川越教会

列王記下23章24-27 24章10-14節 国が亡びるとは 2012年9月30日川越教会

代誌下35章20-25節 ひとりよがりの恐ろしさ 2011年3月27日川越教会

ヨブ記・詩編・箴言

ヨブ記1章1-22節 人生の災難 2017年10月1日川越教会doc

ヨブ記1章18-21,2章7-10節 信仰の恵み 2013年11月3日川越教会

ヨブ記33章1-18節 神に及ばぬ人間 2017年10月15日川越  

詩編1編1-6節 幸いな人生とは 2010年7月4日川越教会

詩編8編1‐10節 人間は何ものなのでしょう 2010年7月18日川越教会

詩編22編10-12節 母のふところ 2010年5月9日川越教会

詩編22編10-12節 母のふところ 2016年5月8日川越教会

詩編23編1-6節 荒野のような人生でも 2010年8月1日川越教会

詩編23編1‐6節 主は羊飼い 2008年10月25日川越教会

詩編37編1-6 23-24節 一歩また一歩と 2010年8月8日川越教会

詩編78編1-8節 何を子や孫に遺すか 2010年8月29日川越教会

詩編85編9-14節 和解から生まれる平和 2007年8月19日川越教会

詩編100編1-5節 喜び歌いつつ 2010年9月5日川越教会

詩編103編1-5節 すべての願いがかなえられる幸い 2010年9月12日川越教会

詩編131編1-3節 母の胸に 2008年5月11日川越教会

詩編133編1-3節 命のオアシス  2008年10月19日大阪教会

詩編133編1-10節 この世のオアシス 2007年7月8日富里教会

詩編137編1-9節 バビロンの流れのほとりで 2013年10月13日川越教会

箴言16章1-9節 神のご計画の不思議さ 2013年10月20日川越教会

イザヤ書・エレミヤ書・哀歌・エゼキエル書・ダニエル書・ヨナ書・ミカ書

イザヤ書2章1-5節 剣を鋤に 槍を鎌に 2013年5月5日川越教会

イザヤ書6章1-11節 聖なる神 2014 年 10 月 5 日川越教会

イザヤ書6章1-13節 ご自分を隠される神 2003年11月9日


[聖書]イザヤ書6章1~13節 イザヤの召命
1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」
4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」
9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。
10 この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。」
11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく 家々には人影もなく 大地が荒廃して崩れ去るときまで。」
12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。13 なお、そこに十分の一が残るが それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。[序]神さまはホントに居るの?
今はもう42才の長男が小学校一年生になった5月、初めての遠足の時のことです。家内が都合が悪かったので私が一緒に参加しました。気持の良い木陰に円く座ってお昼の弁当を皆で食べました。私は長男と向かい合い、何時もしている通り「さあ、お祈りしよう」と言って、食前のお祈りをしました。「このお祈りをイエスさまのお名前によって捧げます。アーメン」と終りの言葉を言って目を開けましたら、彼が体を二つに折るようにして深々と祈りの姿勢をとっていました。「おやおや、何と敬虔ぶかいこと」と感心して弁当を食べ始めました。そのうちにハット気がつきました。彼は両手を組み合わせて祈る姿勢を友達に見られたくなかったのです。彼は生まれてからずーっと教会の中で育ちました。幼稚園も教会付属です。神さまがいらっしゃること、その神さまにお祈りすることは、ごく自然に当たり前のことだったのです。ところが待ちに待った小学校に進むと、お祈りが全くありません。給食が始まりましたが、尊敬してやまない山本先生も、またクラスの誰もがお祈りしないで食べ始めます。彼はびっくりしました。そして家に帰ってきて母親に聞きました。「神さまってほんとに居るの?」教会学校の小学生たちの中にも、お祈りの時にそっと目をあけて周りを見回している子がいます。「先生、○○ちゃんはお祈りの時に目を開けていたよ」と非難されて、その子は「だって神さまがほんとに居るかどうか見たかったんだもの」と弁解していました。そうですね。大人だってこの目で神さまのお姿を確かめたい気持を持っています。「フセインが見つからないからといって、フセインは居ないとは言えない」「大量破壊兵器が見つからないからといって、兵器がなかったとは言えない」と日本の総理大臣は国会で答弁していました。彼は「神さまが目に見えないからといって、居ないのではない。神さまはいらっしゃる」といって神を畏れ敬い、信じるのでしょうか。日本人が皆そうであって欲しいものです。もしも神さまが私たちの目で見てわかったら、もっと多くの人が「神さまなんか居ない」という迷いにとらわれず、信じることが出来るのにと思わずにはおれません。どうして神さまはそうなさらないのでしょうか。先週は、自分の中には、他人の目も自分の目も届かない隠れた自分が居るということに関連して、隠れたところにおられて、隠れたことを見ておられる神について少しふれました。今日は隠れたところにおられる神さまについて、イザヤの預言から学ぶことにしました。[1]聖なる神
旧約聖書はキリスト教の母体であるユダヤ教の聖典です。キリスト教は旧約聖書と新約聖書を併せて聖典としています。救い主メシヤを待ち望んで書かれているのが旧約聖書で、救い主は来られた、十字架で死なれたナザレのイエスこそメシア(キリスト)であるという信仰を証しているのが新約聖書です。新約聖書を信じないユダヤ教徒は今でも救い主の到来を待ち望んでいます。旧約聖書はモーセ五書(律法)、歴史、文学、預言書と四部分から成っています。預言書は大預言書4と小預言書12の16書ありますが、その第一がイザヤ書です。イザヤはBC740年頃、20才位で神さまからの召命を受けて預言者になりました。それから約60年間南王国ユダで預言者としての生涯を送り、マナセ王の時に殉教の死を遂げたのではないかと言われています。彼の時代に北王国イスラエルがアッシリヤに滅ぼされています(BC721年)。今年の初めに新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録を10回にわたって読みましたが、ヨハネが迫害の最中に天上の礼拝の様子を幻を見るように示されています。そこでは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(4:8)という讃美が昼も夜も絶え間なく歌われていると記されていました。青年イザヤも名君ウジヤ王が死んだ時、国の将来を案じて神殿で祈っていて、天上の御座におられる神を見ます。そして同じような賛美歌を聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」。こうして彼は神の臨在にふれて、神の召しに応じます(イザヤ6章)。この聖なる神というメッセージはイザヤ書全体を貫く信仰です。「聖」という字は「ひじり」と読み、儒教では「徳の最もすぐれた人」を言います。また私は天皇を神と崇める教育を受けましたが、「聖」は「聖上」と言って天皇を表しました。また「道をきわめた第一人者」を「樂聖」とか「剣聖」といいます。また「清らかで汚れのないこと」「尊く冒しがたいこと」を「神聖」と言います。しかし聖書に使われている「聖」はそれらとは全く違う、独特のものです。旧約聖書のヘブル語では「分ける」「分離」を意味する言葉です。ですから神を「聖なる方」と言えば、「他の一切のものとは分離された、質の全く異なるお方」ということになります。では神さまが私たちとは質が全く違うお方とはどういうことなのでしょうか。イザヤは神殿で聖なる神さまの臨在にふれた時に叫びました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかもわたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(5節)ウジヤ王は北王国との戦いに決定的敗北した父の後を受けて16才で南王国の王になり、52年間に近隣諸国に優る強くて繁栄した国にしました。その王が死んだのです。繁栄は道徳的な腐敗・堕落をもたらしました。北にアッシリア、南にエジプトの大国にはさまれて、小さな国が新しい王の下に、これからどう生き延びていくのでしょうか。青年イザヤはいてもたっても居れない心境でした。彼は貴族の一人でした。自分が神の代理者として民を教え、叱り、導かなければならないという思いを抱いたに違いありません。そのような思いで祈っている時に、彼は突然自分もまたこの国の人々と同じく、繁栄の中での腐敗・堕落にどっぷりとつかっている罪深い者に過ぎないのだということを痛切に自覚させられたのでした。自分が真先に神の裁きを受けて滅びる者だという思いに襲われて、震えおののいたのでした。彼の正義感は打ち砕かれ、徹底的に謙遜にさせられました。そうしたら神さまは神さまの火、聖なる霊をもってイザヤの汚れを清めてくださり、預言者として立たせてくださったのでした。神さまは、自分とは全くかけ離れていて、質が違い、全てから超越しておられます。私が人間の間では多少自信を持ち、何かやれそうだと思えても、神さまの前に立つと、先ず自分が持ち合わせている自信や自負心が徹底的に打ち砕かれてしまう。そういう神さまを聖なる神とイザヤは表現したのでした。[2]民の心をかたくなにせよ
預言者の任務は、神の言葉を神さまに代わって人々に語るものです。神が彼に語れとお命じになる言葉を、その通りに間違いなく語らねばなりません。イザヤは神さまから「行け、この民に言うがよい」と命じられました。何を語るのか。「よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るなと」。何とも不可解な言葉です。私たちはよく理解し、悟ってもらうために語るのではないでしょうか。9節の「よく聞け。よく見よ」は口語訳では「くりかえし聞くがよい。くりかえし見るがよい」、新改訳では「聞き続けよ。見続けよ」です。繰り返し、連続して見聞きしたら、理解し悟るはずなのに、そうならないのです。10節「この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ」。 口語訳では「この民の心を鈍くし、その耳を聞こえにくくし、その目を閉ざしなさい」。 新改訳では「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ」です。英訳では「かたくな」をdullの他にcalloused(皮膚が固くたこになった様に無感覚・冷淡な状態)と表現しています。私は毎日素足で竹刀を振りますから、左の手の平と足の裏に豆ができ、皮膚が固くなっています。これは私にとっては勲章のようなものです。ところがイザヤが神の言葉を繰り返し語り続けるとイスラエルの人々の心に豆ができて、逆に無感覚・冷淡・鈍感になっていく。これでは聞く人々が「耳を鈍くし、目を暗くし、心で理解しようとせず、悔い改めていやされることがないようにするために」預言しているようなものです。イザヤが熱心に神の言葉を語れば語るほど、人々は神の言葉を素直に受け入れようとはせず、無感覚になっていくか、自分の考えに固執して強情に拒否し続ける「かたくな心」なっていきます。そこでイザヤは、聖なる神は人々の心をかたくなにするために私を預言者としてお召しになったと自覚したのでした。どうしてこのような事態が生じるのでしょうか。神さまが聖なる方、私たちの思いを超越するお方だからにほかなりません。そこでキリストの福音を世界に広めたパウロは、イザヤの預言を「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(第一コリント2:9)と要約しました。私たちを超越しておられる聖なる神さまは、まさに目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことをなさって、救いのみ業を進めるお方なのです。そうです。神さまが救主としてこの世に来てくださった時のお姿は、当時の世界ローマ帝国の片隅、植民地ユダヤのベツレヘムという小さな町の家畜小屋の中で誕生した貧しいヨセフとマリアの子どものイエスというお姿でした。私たちの持ち合わせている考えからすれば、いと高き神と家畜小屋での誕生とはどうしても結びつきません。いと高き神の救い主と、茨の冠をかぶせられ、人々の嘲りのなかで十字架にはりつけになり、惨めな姿で死んでいかれるイエスとどうしも結びつきません。だから神さまはイエス・キリストご自身が言っておられるように、私たちにとっては、隠れた所に居られるお方(マタイ福音書6:6、18)です。それをイザヤは「まことにあなたは御自分を隠される神」(45:15)と言いました。では神さまは私たちを超越していてわからないお方なのだから、その言葉をいくら聞いても理解できないのは当然だ。悟れ、そして悔い改めよと言われたって、それは出来ないと突っ張っていてすむことなのでしょうか。[結]打ち砕かれた心
親や教師が一番てこずるのは、子どもや生徒がこちらの言うことを素直に聞いて、その通りに実行してくれないことです。基本的な大事な教えは先ずその通りに行って身につけてもらわなければなりません。そうしなければ次に進めないのです。それを強情に拒んで自分にしたいようにしようとします。本当に困ります。剣道では「守破離」という修業の心構えが言われています。先ず師範の教えを忠実に固く守って、剣道を確実に身につけること。次に他の教師の教えも学び、取り入れてそれまで固く守ってきたものを破って幅を広げていきます。そして最終的に自分に一番合った独自の剣道を身につけるのです。全くの初心者は神妙に言われた通りをしようとしますが、少し出来るようになるともう自分の我が出てきて、素直に聞かなくなる人が出てきます。剣道では五段になってやっと剣道をやっていますと言える段階です。自分独自の境地など八段になってからでしょう。それが初段や二段三段でもう我の強い人がいるのです。こういう人は結局大成しません。これは剣道だけではないと思います。私たちは自分の理性や感情が納得しないことにはなかなか聞き従おうとしません。これも納得しなければ従わないという我をはっていることになるのではないでしょうか。何しろ聖なる神さまは私たちから超越しておられますから、神さまの思いと行動はわたしたちの理解を超えています。だから納得しなければ聞き従わないと言っていては、神さまに聞き従うことなど私のなかに出てきません。先ず私たちの内にある我を捨てなければなりません。だから神さまはイザヤの自負心や自信を先ず打ち砕いて謙遜にされたのでした。そしてイザヤの口を通してこうお語りになっています。「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命をえさせる」(57:15)結局、打ち砕かれてへりくだる霊の持主が神さまから、豊かな命をいただけるのです。そのために神さまは私たちの心を打ち砕いて謙遜にしようとなさいます。私たちは自分と全く質を異にし、私たちの一切から超越しておられるお方の前に身をさらす時にのみ、打ち砕かれて謙遜にさせられます。だから私たちは聖なる神さまから逃げてはならないのです。人々の心が打ち砕かれて、悔い改める日がいつ来るのでしょうか。「町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで」(11節)結局南王国がバビロンに滅ぼされる日が来るまでは、人々の心のかたくなさは砕かれないと神さまはおっしゃっています。悲しい現実ですね。身を滅ぼすような決定的失敗をしなければ、我をはることをやめず、いくら聞いても悟ろうとしないとは、恐ろしいことではないでしょうか。イザヤはこう預言しました。「まことにあなたは御自分を隠される神。イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる」(45:15)。神さまは聖なる方ですから、私たちからすれば、ご自分を隠しておられる神と映ります。しかし私たちの我を打ち砕いて謙遜にし、聞いて悔い改めさせて救いにあずからせてくださるお方なのです。私たちは滅びる前に、悔い改めたいものです。皆さんも、そう思いませんか。神さまもそれを切に望んで居られます。

イザヤ書11章1-10節 ここに希望あり 2014 年 10 月 19 日川越教会

イザヤ書11章1-10節 獅子も牛も草を食らう 2007年7月1日川越教会

イザヤ書30章15、31章1-3節 信仰が果たして役に立つのか―人生の原点に立つ 2003年11月16日

イザヤ書37章1-7節 危機に直面して 2009年7月26日川越教会

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イザヤ書53章3-5節 鬱からの脱出―うつ病について考える その2 2003年8月10日

エレミヤ書1章1-13節 神に呼び出された青年 2013年6月2日川越教会

エレミヤ書1章4-13節 何が見えるか 2015 年 10 月 4 日川越教会

エレミヤ書1章4-14節 人生を決める時 2009年8月2日川越教会

エレミヤ書7章1-11節 虚しい言葉に依り頼む 2009年8月9日川越教会

エレミヤ書20章7-10節 なぜ生きるのか 20110月25日 川越教会

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エレミヤ書28章1-11節 本物と贋物 2009年8月23日川越教会

エレミヤ書28章1-17節 本物と贋物 2015年11月8日川越教会

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エレミヤ書32章6-15節 畑を買い取りなさい 2009年9月6日川越教会

エレミヤ書42章1-6、43章1-2節 致命的な誤り 2015年11月29日 川越教会

25哀歌2章5-14節 神は敵となられた 2009年8月15日福岡新生教会

26エゼキエル書1章1-21節 ケバル川のほとりで 2016年10月2日川越教会

26エゼキエル書2章8-3章4節 人を生かす言葉 2013年7月7日川越教会

26エゼキエル書8章1-13節 我が身を滅ぼす 2016年10月9日宇都宮教会

26エゼキエル書34章1-5、23-25節 ヨハネによる福音書10章14-16節 良い羊飼いキリスト 2013年7月21日川越教会

26エゼキエル書37章1-14節 枯れた骨の復活 2016年10月23日川越教会永眠者記念礼拝

27ダニエル書1章1-21節 何を大切にして生きるか 2013年8月4日川越教会

27ダニエル書1章1-21節 何を大切にして生きるか 2016年11月6日川越教会

27ダニエル書3章13-30節 たといそうでなくても 2013年8月18日川越教会

32ヨナ書1章1‐2章1節 神からの逃亡 2009年9月13日川越教会

33ミカ書5章1 マタイ2章1-8節 いと小さき者から 2013年11月17日川越教会

33ミカ書5章1-4a節 いと小さき者の中から 2001年12月2日

ルカによる福音書4章31-37節 悪霊との対決 2015年1月11日