わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方がわたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、 信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。
私たちが今このように教会との関りを与えられ、信仰生活を送るようになっているということは決して当り前のことではないと思います。大げさのように聞こえるかもしれませんけれど「奇跡的」なことだと思うのです。それは特にこの日本ではキリスト者はごく少数者である、という意味ではなくて、振り返ってみるとこのように教会(生活)が与えられているということは、元々の自分が考えてもいなかったようなことであり、そこには神様のお働きがあったとしか思えないという意味で「奇跡」だと思うのです。
今月5月と来月は、礼拝では「テモテへの手紙一」と「テモテへの手紙二」をご一種に読み進めます。これらは「テトスへの手紙」と併せて、よく「牧会書簡」と呼ばれます。使徒パウロの名前による手紙ですが、パウロの後、その教会のリーダー・牧師のような働きを受け継ぐことになったテモテという若い愛弟子が牧会的に様々な苦労としていることを聞き及び、そのテモテに対する具体的な助言や勧め、信仰の励ましが書かれている手紙です。異邦の環境にあり、教会を形作っていく、伝道するということの中で、教会のリーダー(牧師)と信徒の在り方を語っているという点で、今、私たちへの言葉として聞くべき言葉があると思います。
1章の前半では、エフェソの教会にいるテモテに対して、教会の中に入り込んでくる異端的教えに注意することと、律法を正しく用いる中で、教会のメンバーが不信仰なことや神様を悲しませるような生活に陥らぬよう、よく注意するようにと記します。このテモテという人物は、母はユダヤ人でしたが父はギリシア人という生い立ちからキリスト者にり、伝道の情熱を持った人だったと思います。年齢こそ離れていましたが、あのパウロが愛し、伝道の旅によく同行させた信頼していた同労者でした。パウロは彼がエフェソの教会の牧会のことで苦労していることを聞きつけ、励ますのですが、その言葉は、単なる「頑張れ」でも「こうやって教会員をのせていけ」というのでもありませんでした。パウロはいきなり神様への感謝を書き始めるのです。12節にこうあります。
―「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。 」 これはパウロの「現在地」と言ったらいいと思います。そこにあるのは、まずは主への感謝。そしてさらに、この現在地に至るまでの自分自身の「恥」の歴史、今の言葉で言えば黒歴史を語り始めるのです。これはパウロの「証し」です。“自分とは一体どういう何なのか”。 13~15節をお読みします。―「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」
これはすごい言葉だと思いませんか?「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。」と言うのは、勇気ある言葉だと思います。パウロのことはもう有名だったかもしれませんが、既に離れてもいますから、パウロってそんな人だったの?と思う人もいたかもしれません。しかしパウロが自己紹介としてそのような自分の黒歴史を語るのは、一つには、主に赦されているという事実ゆを確信しているということと、もう一つは、この教会の人々を信頼している、愛しているからでしょう。そして彼は、過去形で語っているだけではないのです。「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしはその罪人の中で最たる者です。」 私は今、罪人の中で最たる者ですと。現在形です。もし私たちの「証し」というものが、過去の出来事だけになってしまうのであれば(それ自体は尊いものですが)、もしかしたらそこには生ける主の存在が希薄になってしまっているかもしれません。パウロは、別の手紙で「キリストの愛が私を駆り立てている」(コリント二5:14)と書きましたが、そこに彼の秘密があったと思います。彼は自分のことを教会の皆に語る時に、どうしてもキリストとの関係を語らないわけにないかなかったのです。彼は自分の過去の誇りについてはここでは何も語りません。
パウロは、16節以下で続けてこう言います。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」 わたしは主の限りない忍耐を受けたものである、と。そして、注目されられたのは「手本」という言葉です。わたしはあなた方の「手本」だと。私たち、どうでしょう?例えば、あなたも「手本」になって下さいと言われたら、引いてしまうのが普通だと思います。「とてもとても…」と恐縮してそう言います。けれどどうなのでしょう。パウロは自分のことを言いながら、テモテにも、あなたも教会の皆の手本なのだよ、そう自覚せよ、と言いたいのではないでしょうか。18節では「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい」と励ましています。
「手本になれ」と言うと、私たち、どうしてもリーダー格の人こそ相応しいと思ってしまいますが、きっとそうではないと思うのです。「証し」を持つ者は、皆「手本」です。そして「証し」というのは、自分を誇ることではありませんよね。パウロはしょうもない自分を語り、その私を主が憐んで下さった、という信仰的事実をあるがまま語っています。主の憐みをです。一方パウロは19節以下で、二人の教会のメンバーをサタンに引き渡したさえ語っていて、これは解釈が難しいですが、それは断罪しているのではなく、サタンの支配下にあるかのような二人を覚え、主の憐みを信じ、祈っているということでもあると思います。
そして「手本」という言葉ですが、私が思い起こすのが、イエス様が最後の晩餐の時に、弟子たち一人ひとりの汚れた足を洗って下さったという記事です。ヨハネ福音書13章ですが、イエス様はあの場面で「わたしは、あなた方も互いに足を洗い合いように、模範を示したのだ」と仰いました。この「模範」は「手本」とも訳せます。イエス様は、あの十字架を前にして、敢えてこの「洗足」の行為をなさったことを覚えたいと思います。…日々の生活、私たちはとても真っ白な生活など歩めません。好むと好まざるとにかかわらず、いつの間にか罪の汚れがこびり付き、それにも気が付かないというのが正直なところでないでしょうか。けれども、その罪の生活を作る私たちの裸足の足を、主は身を屈めて洗って下さるのです!神様ご自身に等しいお方が、こんなにも低くなられて、私たちを潔めて下さる!こんな神様、いるでしょうか!神様は、ここまでバカになって下さったのです。その究極が十字架ですね。「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」これは伝道の言葉、そして「わたしはその罪人の中で最たる者です。」これは証しの言葉です。それがパウロの告白でした。
「教会」って、どんな所なのでしょうか。―イエス様が臨在する所でしょう。何をそこでするのでしょうか?神様を賛美してみ言葉を聞く。礼拝する。そうですね。何のためにですか?いつも新しくイエス様の愛を頂いて、互いに愛し合うためだと思います。互いに足を洗い合うためだと思います。こういう世界があることを世の中に示すためだと思います。真の平和の原点も、主の愛の中にあるのですから。今日もこの後、「主の晩餐式」を執り行います。この食卓に招かれているということ自体、奇跡的なことです。ここから、また私たちの教会を形作って行きたいと思います。お祈りいたします。