[テモテへの手紙二2章1~13節]
そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい。兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を召集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。
イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。
次の言葉は真実です。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。
わたしたちが誠実でなくても、
キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を
否むことができないからである。」
今日の個所は、「テモテへの手紙二」 2章の前半です。まず1~7節迄を読まれて、率直に言ってここの個所が大好きという人はあまりいないのではないかと思います。読んでいて「あなたはもっと頑張れ」とお尻をたたかれるようなイメージがあるように思うからです。「強くなりなさい」とか「キリスト・イエスの良き兵士として」とか、「競争に参加しなさい」とか、「農夫のように苦労しなさい」とか言われると、私自身はもっと慰め深い言葉の方がいいなぁ、と思ってしまいます。
ただ、そこだけを拾ってゆくとそんな気もしてしまうのですが、これを書いたパウロは、何の前提もなくそのようなことを言っているのではないようです。
今日の個所、これは、パウロから、自分の「愛する子よ」と呼びかけて書き綴っている、愛する若い弟子・テモテへの「手紙」の一部分です。パウロは、今は会えないテモテが、宣教の働きや教会の内部のことでとても苦労しているということをよく知っているのです。しかもパウロは今どこからこれを書いているかと言えば、恐らくローマで捕われの身になっている、その牢の中から書いているのではないかと言われます。今パウロは、もしかしたらあまり光も入らない場所で、しかしテモテのことを思い、何が励ましの言葉になるか、知恵と祈る心をもってこの手紙を書いているのだと思います。パウロ自身どこかで自らの死も考えながら書いているとするなら、「これだけは言いたい」という真剣な言葉にならざるを得ないと思います。そして2章の頭では、テモテに対して「強くなりなさい」と言います。けれどここではっきりとパウロは言っています。「あなたはキリスト・イエスの恵みによって」強くなれ、と。あなたが周りの状況、或いは自分自身の弱さにひるまない強さを与えることができるのは、あなたの中にあるのではなくて、キリストの恵みなんだというのですね。
私は、これを読んだ時、テモテは本当に嬉しかっただろうなぁと思います。尊敬する先生・パウロは私のことをよく分かってくれている。そしてわざわざ獄から手紙を書いてくれた。その中身は厳しい部分もあるけれども、よく読むと、人間の力は、深くは人間を支えられないのだ、あなたはイエス・キリストの恵みによって強くされ、今の所で、キリストだけを見つめるキリストの兵士としてやっていきなさい、と言っているのだと思います。そしてそれには、農夫がやがて作物の収穫を得ることが約束されているように、必ずあなたの戦いを知っている神様の報いと言いますか、満たされる時が来るということを語り、励ましているのですね。
「聖書」というのは、ある意味、神様からの私たちへの「手紙」なんだと思います。(この「テモテへの手紙」はそれこそ手紙そのものですが)今日の週報にも書きましたが、今の時代は、急速に「手紙」をやり取りするということが激減してきているように思います。インターネットの時代になってから、アッという間に時間をかけたコミュニケーションが減ってきました。メール、LINE、ショート動画、SNS…。自分で文章や論文を書くことすら生成AIの力頼りになってきたりしていますよね。私はメッセージにAIを使いたくないと思う派です。楽かもしれないし、聖書解釈はバランスがとれるのかもしれないけれども、どうなんでしょう?皆さん、そういう説教を聴きたいでしょうか?私は、それこそ「手紙」のような、血が通っていると言いますか、色んな細かい間違いはあるかもしれないけれども、この「私」に向かって語られているなぁと感じるメッセージを聴きたいです。そして「聖書」って、そういうものだと思います。大切な人からの手紙は何度でも読むように、何度でも読み直し、所謂「解釈」じゃないのです、その心(ハート)を受け取ること、それが聖書を読んでいく喜びではないでしょうか?
パウロは、「恵みによって強くなりなさい」と書きました。これは言うまでもなく、物理的というより、内面的・霊的な強さ、逞しさですね。パウロはテモテに、その力・強さの源を思い起こさせます。8節以下です。
「イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。」 引用をとりあえずここまでにしておきます。パウロは、ここで自分の哲学や思想を語っているのではなく、「イエス・キリストを思い起こせ」と言っています。これこそが私が語る福音であり、この方は、ダビデの子孫として人となり、私たちと同じ人間として死んだのですが、神様はイエスの業、殊に十字架によるすべての人に対する贖いの業を成し遂げられて、主イエスを死者の中から甦らされたのですと語ります。そしてパウロ自身も、その神様の深い憐みの中で赦され、立たされ、その主イエスの名を異邦人にも伝える器とされたので、今その故に鎖につながれているのです、と淡々と語っています。どうでしょう。何かここには、パウロの解き放たれた心があると思います。牢に閉じ込められていること、それをそのまま受け止め、堂々とさえしています。それは次の言葉が根拠になっていると思います。9節の後半ですが、9節頭からもう一度読みます。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」 この「しかし、神の言葉はつながれていません」。これが決定的です。彼の堂々とした信仰の根っこは、神の言葉はつながれてはいないということに由来していると思います。自分が用いられるとかそうでないとか、それを超えています。私たちの生来の力は弱いもので、時に絶望する時もありますけれども、その時こそ「神様の言葉」がその力をもって前進するのだと。誰も神様の言葉、また、主イエス自身をを鎖に繋ぎ止めておくことは叶わないのです。
更にパウロは、当時歌われていたと言われる讃美歌の詞を「次の言葉は真実だ」と言って書き記します。彼自身もきっといつも頭にあった歌なのだと思います。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。
わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を否むことができないからである。」
この歌は多分当時、洗礼式の時に歌われた歌詞であったそうです。ローマの信徒への手紙の6章などとも通じ合う歌詞です。歌詞の内容は、私たちはもうキリストのあの十字架の出来事の中で、共に十字架に付けられているのだ。もう私は古い自分に死んで、キリストのものとされ、キリストの命に生かされているんだ。だから何も恐れる必要はない。私たちは不誠実で、どこまでも罪人であるけれども、キリストは常に真実である。キリストは今も私たちをずっと捕え続けて下さる、と。これはもうパウロ自身の信仰告白でもあったと思います。彼はキリストという、本当に自分自身を委ね、明け渡すところを知って、本当に変えられましたよね。その経験があるので、弟子のテモテをも、牢に居ながら同じ主に導かれる者として励ますことが出来るのだと思います。
さて私は今日の所から、16世紀のあのマルチン・ルターが、宗教改革運動推進の際、同僚のメランヒトンという教授に宛てて送った有名な手紙の一節を思い出しました。ルターもよく手紙を書いた人でしたが、これは私たちをも励ます言葉だと思うのでご紹介させて頂きたいと思います。
―「あなたが恵みの説教者であるなら、作り物の恵みではなく、本物の恵みを語りなさい。もしそれが本物の恵みであるなら、本物の罪を負いなさい。神は、作り物の罪人を救うことはしません。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかし、キリストをさらに大胆に信じ、喜びなさい。なぜなら、彼は罪、死、そして世界に勝利したからです。私たちがこの世にいる限り、私たちは罪を犯さなければなりません。しかし神の栄光の富によって、私たちは世の罪を取り除く小羊を知るようになったことで十分です。たとえ私たちが一日に千回も姦淫や殺人を犯したとしても、いかなる罪も私たちを小羊から引き離すことはありません。」
もちろん、悪いことをどんどんせよと言っているわけではありませんが、何という大胆な言葉でしょう!そして、慰め、励ましでしょう!私たちは、この救い主イエスがおられるのです!私たちがビクビクして生きることを主は望まれないでしょう。主の十字架は、生きる力です!私たちは罪人のまま大胆に生きてよいのです。テモテも、パウロの手紙を受けてそのように生き、そして永遠にいのちの約束の中に生を全うしたのだと思います。この神様の真実の言葉に励まされて進んでゆきたいと思います。お祈り致します。