先週の日曜日は主のご復活を祝うイースターの日曜日でした。今日はそれから一週間経ってしまいましたので、もうイースターは終わってしまった感がある気もいたしますが、まだ実はイースターの期間中と言ってもよいと思います。今日は、また復活の出来事からご一緒に見てゆきたいと思いました。
聖書の記述を見てみますと、実に様々なイエス様の復活に関わる物語が記されていまして、どれも大変意義深いものです。是非、お読み下さればと思います。
先週のマルコ福音書16章1~8節までのところでは、復活された主イエス・キリストは登場してきませんでした。イエス様が葬られた墓にマグダラのマリア他、女性たちが行ってみると、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と、若者の姿をしたみ使いがそのように告げたと記されています。そしてそれを受けた女性たちはというと、「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と記されています。言ってみれば、まだイースターの喜びというものはどこにもないのです。しかし、それはそうかもしれません。人間の常識では捉え切れないことを告げられ、実際、亡くなったはずのイエスのお体は消えてしまっているのですから。今日はそのイエス様が、弟子たちが集まっている所に姿を現されたということが記されています。
聖書の個所は、ヨハネによる福音書の20章19節以下です。時系列的に言えば、復活日(イースター)の当日の「夕方」ということのようです。
先週もお話ししましたが、イエス様と弟子たち(マグダラのマリアや、エマオに向かう弟子たちも含む)との出会いというのは、彼らがイエス様を探し当てたのではありません。むしろ逆で、いつでも、イエス様の方から彼らの方を訪ねたり、近寄って話しかけられる、そのような出会いでした。これはとても大事なことではないかなと思います。そのことは、復活されたイエス様の大切な目的なのだと思うのです。では、どのような人々を復活の主は訪ねて行かれたのか。(いや、今も訪ねていらっしゃるのか)。―それは、私は本当にそう思うのですが、生きているようでいて、死んでいるような人、“生ける屍”のような存在を主は訪ねておられるのではないか、そう思うのです。
この20章で言えば19節にこうあります。―「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と。この場所がどこかはわかりませんが、一説によると、あの、主がエルサレムで最後の晩餐の用意をされて弟子たちを集められた部屋がある、その家ではないかとも言われます。そうであればあのゴルゴタからはそれ程離れていません。空の墓に立っていた天使は「主は先にガリラヤに行っている」と言われましたけれども、弟子たちは、ガリラヤに行くどころか、この一室に閉じこもっているのです。鍵もかけている。もうそこで動けなくなってしまっている。言ってみれば彼らの心の中にこそ鍵がかかっていると言ってよいと思います。…この部屋はまるで大きなお墓みたいです。
彼らの絶望というようなものは何なのでしょう?いや、彼らだけではなく、主イエスに付き従ってきた者たち、女性たちも含め、イエスを愛した者たちの絶望とは何なのでしょうか?私は、それはあのエマオ途上を歩んでいた二人の弟子が、それがイエスとは知らず、彼らの思いを語っている言葉に表されているように思います。それはこういう言葉です。ルカ福音書24:19以下ですが、イエスが近づき「何のことを話しているのですか」と尋ねた時、「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」と。
イエス様はとても素晴らしい方だったのに、この世の権力者に無残にも殺されてしまった。私たちは彼に望みをかけていたのに、もうその望みは絶たれてしまったということだと思います。他の弟子たちやマグダラのマリアなど女性たちもそうだったと思いますが、もっと言えば、「ああ、私たちはイエス様を見殺しにしてしまったなぁ、何も出来なかったなぁ、情けない、申し訳ない…」という思いがあったと思います。「ユダヤ人たちを恐れて」とありますけれども、そういう一面と、私は何より、自らに対する失望や絶望が強かったのではないかと思うのです。そして、“墓の中”にいるような者、“生ける屍”になってしまっている。私は思います。もし弟子たちがこのままの状態だったらどのようになってしまうのかなと。ちょっと恐くありませんか?―そのような閉じこもった者たちに対して、主は何を告げられたでしょうか?こう書かれています。19節途中からもう一度お読みします。「(弟子たちは)家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」
ここは聖書の中でも極めてドラマティックな個所ではないでしょうか!イエスは、一度死んだ方です。この方は、人間の死を完全に経験されて、そして今そこからよみがえられた方として、弟子たちに出会うためにこの墓のような部屋の真ん中に立っていらっしゃるのです!これは甦った主イエスだけができること。そして新しい体を持ち、鍵をかけていた部屋の「真ん中に」と書いてあります。皆の真ん中に立って、責める言葉など一言もおっしゃらない。ただ「あなたがたに平和があるように」=「シャローム!」と言われ、ご自分の手とわき腹とをお見せになられました。正しく私イエスだよ、ということでしょうか。これは責めているとは私は思えません。むしろユーモアを感じます。「ほら、ほら」って、近づいてごらん、って招いておられるように思うのです。何しろ「シャローム」は、日常の親しい挨拶です。
これ、私たちへのメッセージでもあるなと思うのです。私たちは弱いものです。愛する存在さえ、見捨ててしまう時があるかもしれない。誰かに期待したり、その分、勝手に失望したり、時には愛が変化し、憎しみの情が膨らんでしまうこともあるかもしれない。そして時に自分にも絶望する。イエスを殺してしまうということと、私たちの日常の、常に動いていく心というのは無関係じゃありませんよね。弟子たちが「ユダヤ人を恐がって」というのは、「保身」ということでもあると思います。私たち、皆自分が可愛くて、そして神の独り子を十字架に追いやってしまうのです。その意味で、私たちは「死んでいる」と言ってよいと思います。…そして実際、私たちはいつか肉体の死も経験します。けれども、けれどもです。そのような私たちの存在めがけて、主は「シャローム!」「あなたに神の平和があるように」と言って、もう死ぬことのない命、神の命を持っておられる方が、近づいて来てくださる。そして、「聖霊を受けなさい」と、私たちが新しく生きていく神様の息吹を内に送り込んでいて下さる!そうです。私たちは、神様に捨てられる存在なのではなくて、イエス様をよみがえらされた神様の霊を頂き、もう私たちは復活のイエス様の命の中で生かされているのだ!ということではないでしょうか。これは、大逆転です!私たちは罪の中に死んでいるようですが、実は私たちのこの命、復活の命の中に導かれているのです。滅びない命を「今」、もう生きているのです!それは、イエス様の手の傷とわき腹の傷、つまり十字架でこのお方が、私たちと命を“交換”してくださったお陰です。
先ほど歌いました新生讃美歌240番は子どもでも歌えるシンプルな讃美歌ですが、もう300年以上も歌われている讃美歌でした。途中で「ハレルヤ」という言葉がそれぞれの節の中で4回も出てくるのでそれが印象に残りますが、この歌詞はとても良いなと思いました。特に2節ですが「ハレルヤ」を省いて読むとこうなります。「十字架をしのび、死にて死に勝ち、生きていのちを、人にぞたもう」。―主はまことに死なれて、死に勝ち、甦り、まことのいのちを私たちに与えて下さったということ。今生きているのは、私の中にキリストが生きていて下さっているのだ。だから何も恐れず、聖霊の風に励まされて、肉体の死を迎えるまで、そのイエスと共に、既に古い自分に死んだ者として生きてゆきたいと思います。(ペトロ一1:8~9参照)。お祈り致します。
主イエス・キリストの父なる神様、主のご復活の恵みを心から感謝致します。「弟子たちは主を見て喜んだ」とあります。私たちもかの日に主イエスとまみえることができます。その日を待ち望みつつ、今、生ける屍ではなく、復活の命を確かに頂いている者として、その復活の主に手を引かれて日々を生かして下さい。この日曜日、私たちも、自らの「墓」から出ていくことができますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。