優しい教会(テトスへの手紙3章1~8節)丸山 勉 牧師

[テトスへの手紙3章1~8節]
人々に次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての良い業を行う用意がなければならないこと。また、だれをもそしらず、争いを好まず。寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の欲情と快楽のとりこになり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。
しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます。そうすれば神を信じるようになった人々が、良い行いに励もうと心がけるようになります。これらは良いことであり、人々に有益です。

先週に続いて「テトスへの手紙」を見てゆきたいと思います。この「テトスへの手紙」は、その前に置かれている「テモテへの手紙一」と「テモテへの手紙二」と共に、よく「牧会書簡」と言われています。その教会をリードしている指導者に対する牧会的な言葉、そして信仰者に対する具体的な生活のことについての勧めが強調されている手紙です。紀元1世紀の、パウロか、彼に近い者が書いた手紙だろうと言われています。今日は、「テトスへの手紙」の最後の章3章です。もう先週見ました2章で、語りたいことの中心は語ってしまっているようにも思いますが、パウロ(著者はパウロに一応しておくこととして)は、自分の愛する弟子テトスに、牧会上の大切なことの念押しをしています。それは、端的に言えば、教会の中の争いをいかに収めていくか、ということのようです。
皆さん、教会というところは、いつの時代でもそうですけれども、争いというものが起こりやすい所ですね。こんなことを言うと躓きを与えてしまうかもしれませんが、それを認識しておくことは大切なことだと思います。どんな理由で争いが起こるのでしょう?もちろん色々な要因があると思うのですが、最も厄介なのは、「自分の正しさ」というもののぶつかり合いだと思います。みんなそれぞれ、自分の属するこの共同体を、自分の理想通りにできたらという願いを持つと思います。それは悪いことではありませんね。しかし、皆が強く自己主張をしていたら、バラバラになってしまいます。「正論」と思えること同士がぶつかって口論になるということは珍しいことではないでしょう。この手紙を書いた著者もそれをよく理解しています。しかも、教会が出来て間もなく、時代的にもまだ封建的と言いますか、発展途上の中にあって、教会を一つにまとめていくというのは、容易なことではなかったと思います。
この手紙の3章の初めで、著者パウロは、テトスに「人々に次のことを思い起こさせなさい」と語ります。「思い起こさせなさい」というわけですから、もう知っていることに立ち返ることが出来るように、ということですよね。何か新しい教えが啓示されて、それを伝えようというのではないですし、教会員に頑張れ頑張れと鼓舞していると言うのとも異なります。―「人々に次のことを思い起こさせなさい。支配者や権威者に服し、これに従い、すべての良い業を行う用意がなければならないこと。また、だれをもそしらず、争いを好まず。寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないことを。」 これは、一つには保守的だとさえ思えることです。上に立っている権威に服するようにと言います。これは恐らく暴動とか、冷静な判断を欠いた行動を戒めているのではないでしょうか。そうではなく、「すべての良い業を行う用意がなければならないこと。また、だれをもそしらず、争いを好まず。寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないこと」を勧めます。いかがでしょうか、これは一見「弱い」ことのように思えますが、実はそうではないと思います。むしろ簡単なことではないと思うのです。ですから、パウロも自分を振り返ってこの後で言う訳です。―「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の欲情と快楽のとりこになり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。」

このふり返りは、とても大事なことではないでしょうか。自らをふり返らない、また悔い改めがない自己主張は、説得力を欠きますよね。この手紙の中で、そのようなお互いのマイナス点・正されなければいけないことというのは、この後でも出てきます。例えば9節。「愚かな議論、系図の詮索(国籍、生い立ちということでしょうか)、争い、律法についての論議(今でいえば、信仰理解における仲違いということでしょうか)」とあります。とても「今的」と言いますか、ああ、教会という所はこういうことがらから不和が起こったりすることあるなぁ、と思いました。またそれは、1章の中にも、10節で「実は、不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです」と語れていますし、2章の初めでは、例えば年齢を重ねた男たちには、「節制し、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全でありなさい」と勧めています。そう出来ていない現実があるからですね。

3章に戻りますが、パウロはこのように結構厳しいことを語りながら、でも教会を裁いている訳ではないと思うのです。愛していると思います。これは大事なことかなと思うのです。…私は自己反省することなのですが、随分教会に対して批判的なことを言う人でした。〇〇教会のここが駄目だとか、牧師の事などよく分かっていないのに、心の中でよく批評し、裁いてしまっていました。偉そうな自分だったと思います。確かに教会のことで色々気付くことはあるかもしれない。けれどもそれで裁くのではなく、本当に祈るべきなのです。今は本当にそう思います。パウロがここで「思い起こすように」と言っていることも、そういうことかもしれないと思います。もう一度お読みすると、「すべての良い業を行う用意がなければならないこと。また、だれをもそしらず、争いを好まず。寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないこと」。―決して難しいことではありませんよね。裁かなければ良いのです。「すべての人に優しく接すること」。それをパウロはテトスに語ります。

 では、教会がそのように出来る原点はどこにあるのでしょうか?―イエス・キリストの中にあります!4節以下にこうありました。「しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。」
 ここに、キリストと私たちの関係が示されています。主は私たちの義の行い(それこそ正しさ)によってではなく、ご自身の憐みによって救って下さったということです。主の憐み!ですから私たち、何の誇ることもありませんし、誇ってはいけないのですね。むしろそういう「自分の正しさ」という傲慢を、主の十字架は砕いて下さるのです。

シモーヌ・ヴェイユという1930年代のフランスのキリスト教思想家であった人(34歳で亡くなった女性)は、私たちの中にどうしようもなく入り込んでくる傲慢とか、他者を軽んじる心は、まるで重力のように避けがたくあって、それを解決してくれるのは、恩寵であり、そこに、十字架のキリストを見ているのです。それは一見不幸なもののシンボルのように見えますが、キリストが力を振るわず、十字架を背負われたというところに、この世界に対する救いを見た人です。彼女は、キリストの復活よりも、十字架に心を捕らわれた人だと言われています。

―主の十字架。そこにあるのは一方的な神様の憐みです。どんな人をも(どんな罪深い人も、不幸と思える人も、弱さを抱える私たちも)受け入れるとんでもない「優しさ」です。その優しさは、聖霊を通して私たちの心の中に入ってきました。そしてここに書いてあるように「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」ということ。そう、私たちがバプテスマを受けたということは、私たちの実感以上に、神様が「決してあなたを離れない」というしるしなのです。「こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。この言葉は真実です。」

 私は、これを読みながら、イエス様が語られた「平等な賃金払いのたとえ話」を思い起こしました。マタイ福音書20章です。皆さんよくご存じの、一見不平等に思える賃金払いのたとえです。朝早くから働いた者も、もう夕方になってから少ししか働かなかった者も、ぶどう園の主人は同じ一デナリオンを支払ったという話。ここで面白いのは、遅くになってから働いた者から賃金が支払われ、それを朝早くからの者も見ていたということですね。「え?私たちも同じ一デナリオンなの?」と憤慨した。これは「正しい怒り」のように思えますが、どうなのでしょう?主人は初めから「一デナリオン」の約束をしていたのです。怒る理由は本当はないのですね。主人との関係だけを見ていたら。けれども「あいつらと一緒にするなんて」という傲慢が、差別が入り込んだ。これ、他者と比べる時の落とし穴です。イエス様、このたとえの最後にこうおっしゃいました。「私はこの最後の者にも、あなたと同じようにしてやりたいのだ。…私の気前の良さをねたむのか。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20:14~16)。
私たちの価値観はひっくり返される必要があるのですね。神様の恩寵の前に。

 “主の十字架の憐み”というのは、そういうものなのではないでしょうか?私たち、神様の前に何の良きものも持っていません。皆一緒の場所に、どうしようもない「罪人」として立つのですね。そして皆同じように主に憐れんで頂いた。だから一緒に喜ぶことが出来ます。礼拝がそれですね。そして、日々、み言葉の励ましを受け、陶器師の御手の中に造り変えて頂きながら、これからもご一緒に「優しい信仰共同体」を作っていきたいと思います。そのために主は、“すべての人”を招いていてくださっているのですから。
 お祈りいたします。