あきらめない愛(テモテへの手紙一2章1~7節)丸山 勉 牧師

[テモテへの手紙一2章1~7節]
そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。

今日は「川越教会伝道開始」を記念する主日でもあります。私たち川越教会は、浦和教会が母教会ということになりますが、この川越市という大きい町にも教会を作り、福音を延べ伝えたいという思いから、1968年、今から58年前の5月の第二日曜日から、川越市岸町のアパートで、当時、小久保先生夫妻と2名の信徒、計4名の方たちによって礼拝を捧げた、それが川越教会の伝道開始になったとお聞きしています。来月には「教会組織記念礼拝」(教会組織は1985年、小河先生の時になされました)を捧げますが、伝道の歩みの初めは、58年前のアパートの一室での祈り(礼拝)によって始まったと言ってよいのだと思います。…もう、ここに居る大体の人たちは生れてはいますよね。私も8才だったことになります。不思議ですね。その時はまさか今日この川越教会で礼拝を捧げているとは思ってもいなかったことだと思います。これは神様が、私たちの思いをはるかに超えて、ここに集めて下さり、共に主を讃える仲間として下さったということであり、「今」私たちが、私が、ここにあるということは何か不思議なものを感じます。そしてその背後には、最初のその4人の「祈り」(浦和教会の皆さんの祈りなども含めて)、があったというのは確かなことなのだなぁと思います。
今日は、「テモテへの手紙一」の2章1~7節までを見て行きたいと思いますが、まず初めの2章1節で、パウロはテモテに第一に「祈ること」を勧めています。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」 これは確かに「祈りのすすめ」なのですが、“自分のため”に
祈りなさいとは書いていないのですよね。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」―「すべての人々のため」に祈る。これが出来るのが教会ですね。特に「とりなし」の祈り、これは、「愛」だと思います。確かに私たちは、例えば家族の者が病気になったりすると「神様、どうぞ癒してください。また元気にして下さい」と祈ったりします。自然なことです。しかし「すべての人のために」となったらどうでしょう。そういう「とりなし」というものを私たちは知らなかったのではないでしょうか。

パウロは、続けて2節以下で、この人たちのためにも祈りなさいと言っています。「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。」と言うのです。驚きではないでしょうか。国のトップや、為政者のために祈りなさいと言っています。権力を持つ者のためです。これは権力になびけと言っているのか。そうではありませんね。かと言ってそういう者たちには反抗し、叩けとも言っていません。「祈りをささげなさい」と。それは私たちが落ち着いた生活をすることでもあり、またそれは、救い主である神の御前に良いことであり喜ばれることなのです、と言っています。…物足らないでしょうか。いや、これは凄い行為だと思います。マーティン・ルーサー・キング牧師を思い起こしますね。まさに「汝の敵を愛せよ」ですね。当時はローマ帝国の迫害もありました。悪名高い皇帝もいました。しかしその中で、相手の心に神様のお働きがあるように、その方自身が正しい判断ができるようにとりなし祈るのです。ある意味、自分の心に逆らってでも、その人のことを思って祈る。祈りというのは、愛です。神様・イエス様がそのように押し出して下さる。

はじめに今日は「伝道開始記念礼拝」でもある、と言いました。私たち、なぜ「伝道」するのでしょうか? 2章4節にこうあります。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」 ここでもパウロは言います。「すべての人が」と。例外がない、あってはならないということです。どうしてかと言えば、神様は、ただお一人だからです。ただ一人の神様があなたを造り、あなたを愛しているのですよと。5節。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」一見、排他的に思えてしまうかもしれませんが、排他的ではありません。パウロは続けてこう言います。6節で「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」と。そう。キリストがこの世界に来て下さり、十字架でご自身を献げられたのは「すべての人」のためなのです。けれども、それは単なる博愛精神、というのではありません。パウロはいつだって自分のことをふり返りながら語っていると思います。先週ご一緒に読んだ1章の中で、パウロは自らのことをこのように教会の者たちに語ったというところを見ました。1章13節以降ですが、「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。…「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」 そう、彼こそ、キリスト者に対する迫害者だったのです。ユダヤ教のエリートであったという自負もあり、その熱心さ故、人を踏みにじるような「罪人の中でも最たる者」であったと。けれども、説明はつかないけれども、神様はこんなしょうもない男を憐れみ、私を造り変えて下さった。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は本当なんだ、私自身がそれを証ししているのだと、彼は身をもってキリストの愛を受け止め、語っているのです。そしてだからこそ、彼はどんな者もキリストの愛の外にはいないのだと、そのことを確信しているのですね。先ほどキング牧師のことを言いましたが、「汝の敵を愛せよ」という、その出どころはもちろん主イエス・キリストです。あの山上の説教で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われたその言葉です。その通りの生涯を、生き方を主イエスはなさいました。主は、罪人が神様の愛の中に立ち返ることをあきらめることが出来ないから、ご自分の命さえ献げて下さったのです。

「あなたは祈りなさい」とパウロは私たちにも勧めます。先ほど私たちは「いつくしみ深き」(新生讃美歌431番)の賛美歌を歌いました。この賛美歌は、最も有名で教会以外でも結婚式場とか、最もよく歌われる賛美歌だと思いますが、この歌は「信仰生活」の「祈り」という項目に収められています。内容を改めて見てみると、伝道的な歌詞であると共に、結構、のっぴきならない状況のことも歌っているのですね。1節では「心の嘆き」、2節では「われらの弱き」とか「悩み悲しみに沈む」という言葉もあります。そして3節では「(この)世の友が私を捨て去るときも」という厳しい言葉もあります。私たちも信仰に生きていく中で、丸でこの世に捨てられる思いにかられる時もあるかもしれません。迫害のようなことがないとは言えないでしょう。けれどもそういう中で、この讃美歌は3節でこう確信して歌っています。―「いつくしみ深き友なるイエスは、変わらぬ愛もて導き給う 世の友われらを捨て去るときも、祈りに応えて労りたまわん」 この讃美歌は、私たちに、み言葉の約束に立ち、どんな状況の中でも祈る勇気を与えてくれる歌だなと思います。

パウロは今日の7節の所で自分のことをこう語っています。「わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。」 伝道者パウロの誕生、それは、ユダヤ人以外の「異邦人」と共に救いに与ることを目指しています。これは素晴らしいことです。「異邦人」。私たちもその中にいるのです。

ユルゲン・モルトマンという20世紀の神学者は「希望の神」という説教の中でこういうことを語っています。―「私たち自身の信仰とはなんとちっぽけなものであろう。全く自分のことしか考えていないのだから!私たちはどうして、お互いに受け入れることをしないで信じることが出来ようか。私たちは「私はイエスを私の救い主と受け入れます」と言うであろう。しかし聖書ではそうは言っていない。こう言っている。「私は―異邦人が望みを置く―世界の主を信じます」と。もし彼らすべての者が救われて神をあがめるのでなければ、私たちも正しく救われていないのである。彼らすべての者が神の平和に達するのでなければ、私たちも平和を見出していないのである」。
―深い言葉です。でも、本当にそうではないでしょうか。すべての者が共にイエスが与えて下さる希望に生きることが出来るようになる。その伝道の入り口は、自分の頑張りでも、人間的な知恵を絶対化するのでもなく、「祈り」ではないでしょうか。聖霊を求めることなのだと思います。「祈り」において私たちは、あきらめない神様の愛に感染されて、自分の殻を破って出て行ける。これからも、主の愛に押し出されて、日々の歩み、また教会の伝道の歩みを共に進んで行きたいと思います。お祈りいたします。

神様、今日の礼拝を感謝します。ここに教会が立っているのは、祈りの故です。しかし、何と祈りが少ない者か、み言葉に聞くことも少ない者かとあなたの前に示されます。お赦し下さい。どうか、もっともっとあなたの愛を教えて下さい。あなたの愛に押し出されていくことを喜びとさせてください。今この時も、世界の為政者たちのために祈ります。どうぞ、あなたがそれぞれの心に示して下さい。愚かさの中に滅びることなく、共に生き続ける平和を作り出していくことが出来ますように。病と向かい合っている友の傍らにいて下さり、守り、支え、またそこであなたを仰ぐ心を強めて下さい。皆の祈りに合わせ、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。