[使徒言行録2章12~24節]
人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、 そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。 しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。
私の家に、ホンダマモルさんという方のイラストと共に、ホンダさんの短い言葉と、聖書の言葉が記されている31日分の日めくりカレンダーがあるのですけれども、その22日の所には、こんな言葉が書かれていました。―「そこでおしまいではなくて 次があると思えたら、なんだか上を向けそうな気がする」。そして聖書の言葉は、この言葉が選ばれていました。―「わたしたちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれますが、行き詰ることはありません。」(コリント二4:8 新改訳)。これは素晴らしい約束の言葉です。
今日は、「聖霊降臨日」です。今日の礼拝の準備をしている中で、この言葉に出会えて、私はとても嬉しくなりました。約二千年前、途上を生きておられたイエスのお姿は天に昇り、もうそのお姿を誰も見ることが出来なくなり、その意味では、確かに一つの時代は終わった訳です。しかし主イエスは、十字架にかかられる前に弟子たちに約束の言葉を語っておりました。それは、「わたしはあなた方のために助け主(聖霊」をつかわす。わたしは、あなた方を捨てて孤児とはしない」と。
…皆さんは、いつ神様・イエス様を信じる者とされたのでしょうか?そして、その時どういう思いになったか覚えていらっしゃるでしょうか?私の場合は19才の時でした。「ああ、この私を造って下さった存在があったのだ。私はそれを知らなかったけれど、この方によって捕らえられているのだ!」。私にとってそれは大きな驚きでした。丘の上にある大学から帰る駅への緩やかな下り道を歩きながら、目に入るもの何もかもがすべて美しく思えて、他に何もいらないというか、泣けてきてしょうがなかった時がありました。あれも今から思うと、聖霊なる神様が、それこそ風のように私の心の中に入って来てくださった、そういう体験だったのかもしれないと思います。ただその時は、まだ自分という存在がどれだけ神様に敵対する者であったのかは分からない、とても幼稚な信仰でありましたけれど、信仰というものは、私の努力でも何でもなく、神様の方が私を掴んで捕えていて下さっているのだというその幸いが心にしみてきた原点だったと思います。
私たち一人ひとり神様とのつながりを持ち始めた原点というのは違う訳ですが、そこには間違いなく聖霊の働きがあったのだと信じます。そして私は、また、聖霊の働きというのは、一度神様のものとして捉えて下さった存在を、ずっと離さずに握りしめて下さる、そういうお働きだと思います。「ずっと」です。それは、私たちの信仰の熱心さなどには比例しない一方的な恵みです。今日の使徒言行録2章の初めで、弟子たちが集まっている部屋に聖霊が降り、少し超自然的な現象のような出来事が、鳩とか舌とか象徴的なものも用いながら描かれていますが、その後のペトロの説教というものは重要だと思います。ご承知のようにペトロは主イエス様の許から逃亡した筆頭格の存在です。期待していたイエス様に絶望して、或いは己に絶望して、私の人生、元の木阿弥になってしまったと呟く人生になってもおかしくなかった。けれどそうはならなかったのは、まずは復活された主が、彼らに「おはよう!(シャローム)」と言って現れて下さったということ(ヨハネ20章)、また「わたしがあなた方に約束のもの(つまり聖霊)を送るまで都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)という言葉を、驚きながらも聞いて受け止めたからです。誰より、主ご自身が、ペトロを、また弟子たちを逃さなかったのです!
聖霊降臨を体験したペトロたちは、周囲の者たちから見るとまるで酒に酔っているかのように見えたようですが、ペトロは、冷静に彼らに旧約聖書・ヨエル書の3章の預言の書を通して、今やこれが実現したのです、と語ります。
『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、 そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』
預言者ヨエル当時のイスラエルの人々も、大飢饉に襲われ、もう自分たちはダメだと思ったのです。そして自分たちは確かに神様に裁かれてもやむを得ないと思ったと思います。「やむを得ない」という心。それは一面潔いのかもしれません。「武士道とは死ぬことと見つけたり」ではありませんが、もしかしたら私たちはどこか滅びの美学的なものを持っている所があるのかもしれません。しかし、神様は確かにこの世界の正しい裁き主でありますけれども、私たちが滅んで行くことを望まれる方ではありませんよね。旧約聖書だってそうです。とっくの昔に神の民の歴史は途絶えてしまってもおかしくないのに、ノアの方舟しかり、ダビデだって大きな罪を犯しましたが赦しを得ました。また、ペトロが引用した元のヨエル書の3章5節にはこんな言葉もあるのです。「主が言われたようにシオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばわる残りの者はそこにいる」。ここに記されているように、主は「逃れ場」や、「残りの者」を保っておられます。それは、神様に人間に対する憐みは無くなることはない、ということです。主は「あなた方は生きよ!」と仰るのです。それが「主の御名を呼ぶ者は、皆救われる」ということです。「皆」です。あなたも、私も皆。この「すべての人」というのをペトロは説教の終わりの方でも強調しているのです。使徒言行録2:39 「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
…ちょっと話は変わりますが、今放送しているNHKの朝ドラの『風、薫る』で、先日、こんなシーンがありました。時は明治時代です。主人公一ノ瀬りんが見習い看護婦として勤める病院に、乳がんになったという千佳子という気位の高い女性(仲間由紀恵)が入院するのですが、彼女は、乳房を取る位だったら、このまま死んだ方が良いと思っていることが分かりました。見習い看護婦のりんは、彼女の深い苦悩を分かってくれるのはご主人だけだと思ったのです。それは、昔結婚の祝言の時、緊張した自分に夫(元彦)がただ「きれいな夕映えですね」と言ったそのことに、自分は「空をきれいだと思える人と一緒になれてよかった」と思ったということを話してくれたからなのです。りんから妻が「もう死んでもよい」と思っているということを聞かされた夫は、妻の病室に入り、こう言うのです。「頼む。私のために手術を受けてくれないか。この通りだ」。千佳子は「わたしはもう…」と言うとそれに対して、「千佳子はよくとも、私はよくない。まったくよくない!どうか辛くても、苦しいことがあっても、私と一緒に生きて欲しい。共に見たいのだ。毎日、毎月、毎年、美しい夕映えの空を」とまっ直ぐに見つめて言うのです。それに千佳子は、涙を流しながら頷きます。
今日の話の最初に、私はカレンダーの言葉のことをお話ししました。「そこでおしまいではなくて 次があると思えたら、なんだか上を向けそうな気がする」。そうだと思います。「聖霊」は私たちに、人生、四面楚歌のように思えても、天の窓は閉じてはないないということを教えてくれるのです。神様は、私たちにいつだって、わたしの方を向いて生きて欲しい!あなたが傷つき、生きる力を失ってしまうことはわたしの本意ではないと思っている。だから、いつだって、時代とか環境がどうであろうと、あなた自身がイエス様とつながって生きることが出来るために、神様は聖霊を送って下さったのだと、聖書はそのことを語ってくれていると思うのです。
そうならば、私たちがすべきことは何でしょうか?自分を見ることではなくて、呼びかけて下さる神様の語りかけ(コール)を心の耳で聴き、聴いたならば、「アーメン」と受け止め、レスポンス(応答)していくことです。神様との交わり、イエス様との語らいに生きることです。ペトロもそのことをこの使徒言行録2章の後半の所で周りの者たちに語っています。是非、あとでゆっくりとお読みください。
もう終わりますが、皆さんの中でコンサートのライブに行ったことがある人もおられると思います。この間私が行ったコンサートも面白かったですよ。そのアーティストの「おーい!」という呼びかけに「おーい!」と応える時間がしばらくあって、「ああ、一緒のこのライブを作っているんだな」と思いました。「ライブ」って、「生」という意味もあるけれど、「リブ=生きる」というのと綴りは「LIVE」と同じですよね。私たちも皆、「生きる」という「ライブ」をやっていると言ってもよいのだと思います。聖霊は、神様からの愛の呼びかけです。この世が終わるまで、「わたしはいつもあなたととともにいる」と言われる主イエスの愛の呼びかけです。その呼びかけ、コールに、私たちも「私はここにるよ」と、レスポンスして行きたい。聖霊はいつも私たちを、新鮮な主との出会いの原点に戻してくれると思いますし、その出会いを、神様の方が忘れないでいて下さり、保持するだけでなく、さらに、私たちの人生の歩みに沿って更新し、新しい導きと恵み、支えとを与えて下さるのだと思います。どうぞ、皆さんお一人ひとりに、上から吹く風が注がれますように。