[テモテへの手紙二3章14節~4章5節]
だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。
「暮らしの手帖社」から出ている『暮らしのヒント集』という、生活や人生のヒントになるような一言が沢山書かれている本の中が出ているのですが、その中の一つの言葉に心がとまりました。こういう言葉です。
「初めて食べるもの、初めて訪れる街、初めて見る映画、身の回りにある小さな「初めて」に目を向けると、いくつになっても楽しい日を過ごせます」。
良い言葉だなと思いませんか。私たちが人生経験を重ねていくこと、それは素晴らしいことに違いないと思いますけれども、いつしか多くのことが当たり前になり、有難味と言いますか、ドキドキしたりすることや、詩人のような、子供の心のような感動が薄くなってしまっていくということがあるように思います。けれども、私たちクリスチャンは幸いだなあと思います。なぜなら「聖書」が与えられて、み言葉に“日々”出会うことが出来るからです。そのみ言葉を、私たち、研究とか、頭で理解しようとするよりも、まずは文字通り、神様が語りかけて下さる言葉として、心で聞いてゆきたいと思うのです。先ほどの『暮らしのヒント集』の言葉に、少し文集が追加されていまして、そこには、「子供のような心をもって殻を破る冒険をすると、心が躍ります」ということが書いてありました。
今日の聖書の個所は、パウロが弟子のテモテに宛てて書いた「テモテへの手紙二」 をご一緒に開く最後です。先週は特別な礼拝でしたので、今日は3章の後半から4章にかけて、特にパウロが「み言葉」ということにこだわって語っている部分を味わってまいりたいと思います。
この手紙を書いたパウロは、弟子テモテが教会の伝道が思うように進まなかったり、まわりからの異端的な教えに惑わされる人が多く、その働きに苦労していることをどこかで知ったのでしょう、手紙を書いて彼を力づけるのですが、その際に、あなたは聖書・み言葉にしっかりと立つようにと勧めます。3:14以下です。―「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 」
テモテは、父親がギリシア人でしたが、母親がユダヤ人で、初代のクリスチャンの子供でした。小さい頃から聖書に親しんでいたようです。当時聖書は旧約聖書でしたが、パウロはこう言っていますね。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」 そうです。これは“救いの言葉”なんです。旧約聖書は、イエス・キリストの到来を指し示している、生ける神様の言葉です。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」とパウロは、テモテに、あなたはこの聖書にこそ立ち続けなさい、そこで聞き取ったことから離れないようにしなさいと勧めます。ヤコブの手紙1:21には「御言には、あなたがたの魂を救う力がある」(口語訳)と書いてありますが、これもすごい言葉ですね。「御言には魂を救う力があるのだ」と。それは、神様が、聖霊を通してみ言葉を用いて下さるからですね。
私たちは、み言葉に「生かされていく」んです。そう。滅びではなく、私たちを生かそうとします。そのためにキリストは、「まことの言葉」として私たちの所に来て下さったのですね。ですからパウロは4章で、キリストが再び来られるその日が来る(再臨)前に、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」と語ります。伝道って、自分の言葉であれこれ語るということではなく、その人にみ言葉が届けられれば十分ではないでしょうか。み言葉そのものが力を持っているのですから。
今日、私は話のタイトルに「み言葉は私の血肉」とさせて頂きました。「血肉」、正に血と肉。そして、それを私たちの中に作るのは、外から入ってくる食べ物であり、飲み物ですね。普段私たちが当たり前にやっている「食べる」という行為ですが、これは生きることと直結していますよね。例えば冬眠できる動物(熊とかリスとか亀とか)は、その間食べなくても生きていけますが、人間はそのように作られてはいません。基本的に毎日食べ、そして排泄も毎日きちんとしていく。それが命を作って行く、継続していくことの基本ですよね。そして、私たちを霊的に生かすのは「み言葉」だと申しました。それを「頂く」のです。み言葉が私たちの肉となり、血となっていく。旧約聖書の預言者エレミヤは、「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました」(15:16)と語りました。み言葉が差し出され、それを食べた。そうしたら、それはわたしの喜びとなり、心は喜び躍りました、と言うのです。神様は食べなければ生きていくことが出来ない弱い存在に、食べ物を与えて下さるというのは、ギフトですね。「当たり前」じゃないんです。また、食物を「分析する」のでもないのです。み言葉が与えられていること自体が神様の愛です!その親が、生まれたばかりの幼な子の名前を何度も何度も呼ぶように、私たちには、語りかけて下さるお方がいらっしゃるのですね。「み言葉」。そしてみ言葉なる主イエス・キリスト。その語りかけを、毎日驚きながら新鮮に頂く。そこに私たちは、自分自身からも解放してくれ、まことの平安の内に導いてくれる確信も与えてくれるのだと思います。
考えてみれば、この手紙を書いたパウロは、迫害され、今牢の中から書いていると言われます。パウロは自分の人生の終わりをも見据えていますが、とても落ち着いて堂々としています。4章の6~8節を読んでみますとこう記しています。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」 この最後の言葉があるのが良いなぁと思います。自分のことだけを語っていたら、「パウロ先生は凄いなぁ」で終わってしまいますが、彼は、今苦闘している者たちを励ましているのです。「わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも(義の冠を)授けてくださいます」と。
どうでしょうか?それでも私たちはパウロは特別な人だと思ってしまうところがあるのではないかと思います。私もとても真似できないなぁと思うとことはあります。けれども、真似出来る・出来ないということではなく、本質的には私たちはパウロと変わらないと思うのです。というのは、私たちもパウロも、本当の意味で生かしているのは、み言葉であり、聖霊であるからです。
私は、み言葉に生かされる人生ということを思う時にいつも思い出し、励ましを受ける言葉があるのです。それをちょっとご紹介させて下さい。それはキリスト者の哲学者で森有正という人の、旧約聖書のアブラハムの生涯を語った講演で、『冒険と信仰』という題のものです。もう50年以上前の言葉ですが、それこそいつも新鮮に響いてくるのです。
―「冒険というのは、自分の心の軸を他のものに結び付け、それとともに生き、それと共に学び、それと共に、苦しみ、その中から自分の魂を豊かにしていくこと、また他を豊かにしていくこと、そういう道なのであります。冒険とは、自分の自由にならないいろいろなことが起こってくることなのです。…ある時、アブラハムは直接に神様の前に立つようになる。「あなたは国を出て、親族に分かれ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)。神ご自身が父親に代わって口をきかれるようになる。アブラハムに冒険させたもの、それは皆、外から来たのだ。そしてその冒険を乗り越えさせたもの、それは彼の神に対する信仰ですね。その方向付けは、彼の中にはなくて、彼に約束を与え、それの成就の方向に導いた神様の中にあったのです」。
アブラハムも、決して特別な人ではなく、彼も人生の途上で、ある時から「み言葉を食べる」「血肉とする」人生の冒険に足を踏み出した人です。パウロも同じです。そして、今の私たちも同じようにそれをやって生きているのです。み言葉の真実は、あの十字架のイエス様の所から私たちに送られて(贈られて)いるのです!イエス様が、十字架にまでかかって下さって、こんな弱い私たちをしっかりと掴まえて下さっています。あなたは安心して私について来い!と語って下さっています。私自身があなたの血肉となるよ、と言って下さっています。だからこの先のこと、どんなことが待っているかは分かりませんけれども、未知のことに不安はありますけれども、基本的には平安です。揺らぐ私たちだからこそ、み言葉の約束が与えられているのです。それを日ごとに頂きながら、御国に至るまで歩みを進めてゆくお互いであらせて頂きたいと思います。お祈り致します。
主よ、あなたに信頼致します…。どんな時もあなたは私を見捨てず、語り掛けていて下さることを感謝いたします。どうぞ、あなたのみ言葉を毎日、食することが出来ますように。私たちを生かして下さい。…アーメン。