「良し」とされている(テモテへの手紙一3章14~4章5節)丸山 勉 牧師

[テモテへの手紙一3章14~4章5節]
わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、
天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、
世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。
しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。

私が以前大泉教会の会員だったころ、当時の松村誠一先生が、ご自分の父親で、常盤台教会の牧師であった松村秀一先生が、礼拝の説教の中でこんなことを語っていたというお話をされて、それを時々思い起こすことがあります。松村秀一先生は、「教会から追放しないといけない存在がある」とよく言っていたと言うのです。それだけ聞くとドキッとしますが…。どういうことかと言うと、「教会から追放しないといけない存在、それは“べきた”さんだ」と言うのです。それは「何々すべきだ」という「べきた」さん、ということなのです。一面「何々すべきだ」というのは、時にとても大事なことだと思います。特に自分自身に課するということにおいてはそうだと思います。しかし、その「何々すべきだ」を他者に強制してしまうと、それは裁くことでもあり、人は緊張し、委縮し、交わり全体に暗い空気をもたらすものになってしまうということだと思います。
私たちキリスト者が信じているのは、いわゆる「宗教」じゃないと思います。そうではなく「福音」です。福音とは、喜びの音信ですし、人を「自由」にする筈です。しかし、ともすると私たちは真面目な気持ちから、「福音」を「律法主義」に替えてしまうということがあるのではないでしょうか。今月から「テモテへの第一の手紙」を読んでいますが、パウロは今、伝道していたエフェソを離れ、自ら「愛する子」と呼ぶ若い愛弟子テモテにエフェソの教会を委ね、手紙を書いて励ましています。パウロは3:14で「間もなくあなたの所に行きたい」と言っていて、4章の前半では、教会を惑わす者たちに注意せよ、と言っています。それは他の神々を崇拝する明らかに異端的な教えというものもあったと思いますが、また「偽善」という言葉で、いかにも信仰的に思えるが、独り善がりな押し付けにも注意せよ、とも言っています。それは具体的には4:3にあるように「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたり」していたということです。パウロはそんなことを神様は仰っていませんと言うのですね。そしてそうではなく大事なことは、また後で触れたいと思いますが、それは「感謝」ということだと言うのです。そして「感謝」には「喜び」が伴っていると思うのです。

そして、それはどこから生まれるのかというと、イエス・キリストが私たちの主となって下さったという事実です。そのことをパウロは3:16にある「キリスト賛歌」という形で明らかにしています。彼はそれを「信心の秘められた真理」としてここに引用しています。それは、「信仰の秘儀(奥義)」(「ミュステーリオン」)とも言われます。つまり隠されていた神様の秘密が、人間のために明らかになったというスケールの大きなことを言っていて、ある聖書学者は、この部分は、第一テモテ書の頂点だとも言っています。確かにここはこの手紙の富士山みたいな所かもしれません。パウロが引用したこの詩のような言葉は、初代教会で唱えられていた信条、或いは賛美の歌だっただろうと言われます。リズミカルで韻も踏み、はっきりした対比も持っています。―「キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」―どの言葉も全部受動態で書かれていますが、天と地を行き来している、繋いでいるのです。まず地から始まります。「キリストは肉において現れ」そして、天です。「“霊”において義とされ」(救いの成就ということ)、そのまま天です。「天使たちに見られ」、そして再び地に来て、「異邦人の間で宣べ伝えられ」、「世界中で信じられ」、最後には天です。「栄光のうちに上げられた」と。キリストの出来事の内実を、短い言葉で歌い切っています。パウロもきっと暗唱していたのでしょう。キリストの「受肉」、「十字架」、「復活」、「昇天」、それは神様の隠された秘儀であり、それが、今やはっきりと私たちに現わされたのだと。
そしてパウロがなぜそれを言えるのかというなら、彼も復活の主にまみえたからですよね。彼は、ご存じのように鼻息荒くキリスト教徒を迫害する人間でしたけれども、あのダマスコ途上で復活の主につかまって、それまでの律法主義の生き方から全く変えられたじゃないですか!むしろ「私はもし誇るとすれば自分の弱さを誇ろう」と、それまでガンガン人を裁いていた自分が、主の憐みに打たれ、こんな自分も神様の前に赦され、「良し」とされている。こんな私も救われたのだ。神は真実な方だ、全ての人は救いに招かれているのだ!と異邦人たちに向けて伝道を進めて行ったわけです。これは彼の力じゃありませんよね。キリストの復活からもたらされた聖霊の力、それこそ隠されていたキリストの力が彼を覆ったからです。

今日、週報に一つの絵画を引用しました。元は壁に直接描かれたとても大きな絵です(約2M×2M)。15世紀、ルネサンス初期の時代、ダ・ヴィンチにも繋がっていく当時の最高の絵画の一つと言われている、ピエロ・デッラ・フランチェスコの『キリストの復活』というものです。これはイタリアの田舎・サンセポルクロ市庁舎の壁面に描かれたものということです。ご覧ください。主が復活された朝早くの出来事です。カエサルから送られた番兵が熟睡している間に、墓を破ったキリストが、片足を墓の淵にかけてまっ直ぐに立ち上がります。その体には、脇腹と手足にも傷が見えます。死そのものであった十字架が、今や主の手の中で勝利の旗印となっています。そして、この絵を見る者とキリストの目が真正面から合うのです。「眠らないでわたしを見よ!」と言わんばかりです。象徴的なのは自然の背景で、一方は冬枯れの木ですが、反対側は、緑が茂っています。キリストが中心にいることで、舞台が変わっていくんです。キリストが蘇えられたことによって、世界は新しくなったのだと告げています。(ちなみに、左から二番目のすっかり眠りこけている男は、ピエロ・フランチェスカ自身を描いたのだろうとも言われています)。
肉体を持って地に来て下さった主は、肉体がある故に本当に死を体験された方です。しかもその死は、全ての人と連帯するもっとも残酷で惨めな死でした。しかし、復活によって、こんなダメな世界も、こんなダメな私たちも、主が捕え直して下さって、あの創世記1章にある「極めて良かった」という言葉の回復のように、私たちを肯定し、許し、「良し」と言って下さっている!この方の圧倒的な愛を受けた私たちなのだから、「あれがダメ」「これがダメ」「これは信仰者らしくない」といった、律法的で縮こまった生き方ではなく、この世界と私たち自身、またすべてのものを愛して生きていくことが、復活の日から始まった、といって良いのではないでしょうか。

4章1~5節をもう一度読んでみたいと思います。「しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」
パウロは言うのです。あなた方自身も、かつては神様に背を向けていたが、今は主の復活がもたらして下さった「良し」とされた世界に生かされているのだから、ひたすら「感謝」に生きればよい、ということです。何と単純だけれども、喜びがある生き方ではないでしょうか!

ある教会の週報を見る機会があって、「ああ、いいなぁ!」と思ったことがありました。これはどうもそのように導かれた方々が、月の第一週に「感謝」の思いを一言何かに書き添えながら献金を献げているようなのですが、例えば、こんな一言が週報にも書いてあるのです。―「み言葉を頂いて信じ歩めることに感謝」「仕事に助言が与えられて感謝」、「お祈り頂いていることに感謝」、「保育園の働きが守られ導かれ」、「礼拝ライブ配信感謝」、「日々の歩みを支え導かれていることに」。或いは「コンプレックスを自覚し、向き合った日々のお恵みを感謝」とか「補聴器に出会えて」というのも書かれていました。何かいいですよね。その方の生活と心が伝わってきますし、きっと皆さん、こういう言葉でも励まされているんだろうなぁと思いました。私だったら何を書くかなぁと思いました。直近のことだったら、「先週の信徒会感謝」でしょうか。でも、献金という形で無くても、「感謝」を見つけるということは良いことだなぁとと思いました。今日はこの聖書の言葉や賛美歌が心に響いたとか、家族のこととか、または、病や、痛みが少しでも改善に向かったら感謝なことですし、誰かの優しい一言に救われたということや、気になっていたことがよい方向に導かれたとか、色んなことがあると思うのです。…そしてまた同時に、この世界の痛みも覚えて行きたいと思います。神様が良しとされている世界なのに、戦争が絶えないということ。そのほかにも色々な問題は次々に起こってきます。世界のことも身近なことも。でも、クリスチャンはどんなことでも大胆に「祈る」ことが出来るということ。これは本当に大きな恵みではないでしょうか。それこそ「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」ですね。大きなキリストの愛の中で生かされていくお互いでありますよう、お祈りいたします。