[テモテへの手紙二 1章3~14節]
わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に、感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。そして、あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。
そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。
今月は、「テモテへの手紙二」を読み進めます。この手紙は、パウロが自分の死を予感しながら、ローマの牢の中にいる時に書いた彼の最後の手紙ではないかという説もあります。宛先は愛する若い弟子テモテです。そしてそのテモテの背後には、テモテが委ねられているエフェソの教会があります。この手紙でパウロが何をやっているかというと、自分の窮状を訴えているということよりも、テモテを励ましているのです。その励ましの言葉を語る時、ただ「祈っているぞ」というのではなく、パウロ自身とテモテをつなぐ「イエス・キリスト」という存在を仰ぎ、そのキリストの恵みの確かさを語っています。1章10節の途中からパウロはこのように語っています。―「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。」 彼は今のことを語る時に、どうしてもキリストが自分にして下さったことを語らざるを得ないのですね。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださったのだから、福音に生きることの中で受ける苦しみは苦しみではないと。そして、愛するテモテ、お前もそうだろうと、信仰の原点を見つめさせています。
少し遡りますが、1章5節の途中からお読みしますと、「(あなたの)信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています」と、受け継いできた信仰を思い起こさせ、少し飛ばして8節以下では、「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです」と、テモテを励ますのです。パウロは、テモテがエフェソの教会で若さ故に軽んじられていたり、伝道牧会の上で苦労していることを知っていましたから、「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と、ローマの獄中から祈りつつ、手紙を書きます。この言葉は、テモテを深く慰め、力づけたに相違ないと思うんです。
私は、ここで改めて「教会」ということを考えました。エフェソの教会もそうであったように、「教会」という所は、いわゆる完全な場所・理想郷ではありませんよね。人間は弱さと限界だらけで、本当に不完全な群れ、それが教会という信仰共同体ですね。しかし神様は、その群れを、ある意味、人間の手に委ねているのです。主イエス様が、弟子のペトロに向かって「わたしの羊を飼いなさい(養いなさい)」と言われた言葉は、今日の時代も、牧師・伝道者もそうですが、教会の働きに参与する全ての者に対して言われている言葉であると思います。「万人祭司」と言います。全てのキリスト者が、神様と人との間のとりなしをする務めを委ねられています。「私はとてもそんな器ではありません」と、私たちは謙遜して言いたくなりますが、いや、もう、クリスチャン・キリスト者にさせて頂いた者たちは、自分という存在が、神様と人間を繋ぐアンテナにされていると思うのです。それが「祭司」ですね。神様は、それぞれどういう形か分からないけれども、「どうしてこんな辛いことも?」と思ってしまう色んな経験もさせながらも私たちを整え、信仰共同体の一員としても、私たちをキリストご自身のわざに用いようと導き、群れの中に置いて下さっているのではないでしょうか。
信仰共同体・教会をこれからも担ってゆくテモテに対し、パウロは、先程ちょっと飛ばした1章6~7節でこのように語っていました。―「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」 「手を置く」というのは、いわゆる「按手」ですね。按手それ自体に、何か力が宿っている訳ではありませんが、その人が、神様に委ねられた働きを担うことを支える神様の祝福と、遣わすことを祈る「祈り」がそこにはあります。それは、自分の欲望に従うことではなく、ただ自分を、神様の「通り良き管(くだ)」=通路として頂く、ということです。
「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」 この言葉は、皆さん、どのように思われるでしょうか?「燃える」と言うと、ちょっと激しいなと思われるでしょうか。「わたしはそんなに熱心にはなれない」と思ってしまうこともあると思いますが、でもこれは、私たちの内に宿った聖霊という炎のことではないかと思いました。その聖霊という神様の賜物が、種火のようにいつも心の中にあって、私たちを生かすエネルギーになっていくということではないかと思います。
私はこの「燃え立たせる」と言う言葉で思い起こした聖書の記事があります。ルカによる福音書24章に描かれている、あの主の十字架の出来事の後、とぼとぼと失意の内にエマオの村に戻っていく二人の弟子たちに、復活のイエス様が、「何の話をしているのですか」と近寄って尋ねる所から会話が始まり、遂に歩きながら、イエス様ご自身から聖書の解き明かしを聴くことになり、後になって「あの時、私たちの心は燃えていたではないか」と語ったという、あの有名な記事です。そうです。主の御言葉が語られるところ、そこで私たちの心は、種火がくすぶっていても、再び炎に明るさと勢いが取り戻されるのだと思います。主イエスの言葉、御言葉にその力があるからですね。
川越教会のことを思いました。川越教会は今、私の今年度での牧師退任が承認され、次期牧師招聘委員会も出来、進みつつあるところだと思います。「どのような牧師を望むか」というアンケートもされています。「招聘」ということは、当然ですが、ある人を選んでいくということが出てきますが、選ぶ教会側も、「招聘」によってどういう教会を作って行きたいか、川越教会がどう変わっていきたいか、それをよく話し合い、考え、祈っていくということが大切だろうと思います。そして、それは、たとえ時間がかかっても私は良いと思います。足もとをもう一度見つめ、新しい導きを得るチャンスだと思います。 来年度以降も、きちんと定例集会が維持されていくということ、それが何より大切ではないでしょうか。パウロの言葉。「あなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」 御言葉が私たちの心を燃やさなければ、教会は教会ではなくなってしまいます。私、最近そのことを強く思うのは、礼拝もそうですが、特に、木曜日の「聖書の学びと祈り会」を続ける中でです。聖書を輪読し、短く分かち合い、祈る時間。この集まりに、川越教会以外の方も何名かの方々がおいでになることがあって、やはり、定例集会(礼拝・祈祷会)が休まずに続けられることは教会の心臓部だなと思いました。前任の加藤享先生も、「これだけは決してやめてはいけない」と語っておられましたね。ですので、来週また信徒会がありますが、先日のそれに先立つ会の時に、私からは当番信徒の方たちに、特に来年度の定例集会の持ち方の青写真を皆で話し合うことも始めて頂きたいということをお話ししました。
パウロは、「神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。」の後で、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」と書いています。神様は後ろ向きの霊じゃなく、「力と愛と思慮分別の霊」を下さったと。そう言われるからには、それが既に与えられているということです。「思慮分別の霊」というのは、「慎み」とか「冷静さ」という意味もあるようです。私は思いました。これって、イエス・キリストの霊そのものだなと。「力と愛と思慮分別の霊」を、「聖霊」を、私たちはもう与えられているのです。そして、そういう私たちが集められているのが「教会」です。あの主の十字架のもとで、私たち、不思議に集められました。欠点だらけの私たち、いや、実は自分の罪の故に倒れ、絶望したままになってもおかしくない私たちが、神様の力と愛とによって、あの傷ついた旅人を介抱した良きサマリヤ人のように、この“信仰の家、信仰という旅をする者たちの宿”に何とか運んできて下さったと言ってもよいのではないでしょうか。「あなたは、ここに居なさい!ここで私の言葉を聴きなさい。そして、あなたの重荷を下ろしなさい」と。そして、今度は私たちの番です。イエス様の霊を頂いた私たちは、主が思いっきり働いて下さるように、主よ、どうぞ自由にお用い下さいと神様に私たち自身を差し出して祈ってゆきたいと思うのです。そのような中で神様は、神様の仕方で、この「教会」という、“信仰の旅の宿”も、私たちの思いを超えた形で、ユニークに用いて下さるのでないでしょうか。お祈り致します。