やらわかい心に(箴言1章~7節)丸山 勉 牧師





[箴言1章~7節]
イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。
これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため
諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。
未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。
これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。
また、格言、寓話
賢人らの言葉と謎を理解するため。
主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

今日は旧約聖書の『箴言』の最初の言葉を読んで頂きました。これは、神様に「わたしに聞き分ける心を与えて下さい」(列王記上3:9)と祈り願ったソロモン王の言葉の数々がまとめられているものだと言われていますが、ソロモンだけではなく、様々な人物による短い「知恵の言葉集」といって良いと思います。そしてその中でも1章7節の言葉は、全体のトーンを決定づけている言葉だと思います。それは「主を畏れることは知恵の初め」という言葉です。「畏れ」という言葉は、新共同訳聖書では「畏敬」の「畏」の字を用いています。ヘブライ語では「イルアト・アドナイ」という言葉だそうで、ただ「恐れる」というというニュアンス以上の、深い敬意というものが、この言葉にはあります。そしてこれが「箴言」の全体の基調にもなっている事柄だと言えます。「主を畏れる」ということ。そのように説明してしまうと、「はい、そうですか」で終わってしまう訳ですが、今日はご一緒にこの「主を畏れる」って、どういうこと?ということを少し考えて行きたいと思います。

この「主を畏れることは知恵の初め」というのは、私たち一人ひとりへのチャレンジでもあるなと思います。これは聖書からの問いです。「あなたは“主を畏れる”人生を作れていますか?」と問われている訳です。それに「ハイ!」と胸を張って言える人がいるかどうか。―「主を畏れる」。結構難しいなぁ、と思います。神様は目には見えません。その姿をいつも意識するなどということはできませんよね。私自身は、常に神を意識して「畏れる」は出来ていないと言わざるを得ません。正直なところです。でも、箴言は「主を畏れることは知恵の初め」と言いますから、「主を畏れる」心がないということは、真の「知恵」も持てていないということになります。あなたは真の知恵ある人生を送っていないと。

もしかすると、「知恵」を持つということと、神様を信じる・神様に頼る、ということは相反することだと思われることもあるのではないでしょうか?一般的に、所謂「神頼み」ということが、考えることを棚上げしてしまうことのように捉えられてしまうということもあると思います。けれども、私たち、そうではないと思うのです。確かに四六時中神様を意識して、畏れて生きている訳じゃないかもしれませんが、神様に信頼することと、自分の責任において生きるということは矛盾していないのではないかと思うのです。私はそれを考えるヒントになった映画を先週見ました。

それは、映画『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』という映画です。わずかな映画館でしか上映されていませんが、新宿の映画館、連日予約で一杯になっています。大岡昇平の『野火』も作った塚本晋也監督の作品で、今年のヴェネチア国際映画祭で「レオンチーノ・ドーロ賞(金の小獅子賞)」という、若い学生たちが特に推したという賞を受賞した作品です。実話が基になっています。アレン・ネルソンさんという人は黒人のアメリカ人で、既に他界していますが、18才で、貧しさの中で志願兵になってベトナムに送り込まれました。そしてその前は沖縄のキャンプ・ハンセンで徹底的に訓練を受けます。それは「何も考えるな。絶対服従。仲間を助けること、そして人をどう殺すか」の訓練です。

そして戦場に送り込まれる。…彼は帰国後ホームレス状態になるのですが、小学校の教師になっている友人から「ベトナムのこと話してよ」と言われ、しぶしぶ承諾し、教室で子供たちに「何でも聞いてくれ」と言って、当たり障りのないことを話していると、最後に女の子(4年生位?)が手を挙げて「ミスター、ネルソン、あなたは人を殺したのですか?」と質問したんです(それが映画のタイトルに)。長い沈黙があり、彼の足が震えます。

(映画の説明。前半は目を背けたくなるベトナムの村や人々を襲撃する場面が展開します。残酷な描写もあるので、そういうのに弱い人は遠慮した方がよいかもしれませんが、その後は、ネルソンさんの内面にグッと入り込んでいく)

戦争のトラウマが真正面から描かれている。PTSD。被害者だけじゃない。手を下した人も、深い傷を負って、悪夢にうなされるようなことも繰り返す。その当時は、まだカウンセリングの治療も手探りだったようです。ダニエルズ医師。必ず最後にネルソンに聞くのです。「なぜあなたは人を殺したのですか?」と。ネルソンさんは答える。「それは命令だったからだ」とか「戦争なんだよ。殺さなければ、自分が殺される」。―「分かった。今日はここまで。また今度会おう」。
…どれ位経った時でしょうか。ダニエルズ医師は再び尋ねます。「なぜあなたは人を殺したのですか?」―それに対しネルソンは、初めて、「殺したかったからだ」「殺人を楽しむようになっていた」と言うようになりました。これがけれの人生の大きな転機になりました。

私たちも色んな言い訳(エクスキューズ)をします。それは自分を守るため。咄嗟にやります。こんな理由があったんだ、あんな理由があったんだ、あの人のせいだ、状況が悪かったんだと。けれども、深い所では私たちは気付いている所があるのだと思います。自分はまずいことをしたなって。だから言い訳が本当の解決にはならない。それで私は、「主を畏れることは知恵の初め」という言葉を思い起こしました。主がいないということは、どこまでも言い訳に生きてしまうということにならないだろうか。そして、自分に不正直であるということは、自分の「頑なさ」に負けているのだなと思うのです。心の鎧を着けていると言いますか。ですから「重い」んです、ずっと。でも、相対的な世界の中でだけやっていくと、結局「ごまかす」とか「隠し通す」ということを続けるしかないんじゃないかと思います。けれど、主の前には隠せないじゃないですか。「主を畏れよ」と聖書は語る。そして私は思うのです、「主を畏れる」ということは、相対的にではなく、真に自分を開ける方の前に、正直になる、ということなのではないかなと。「心の握りこぶし」を開かせてくれる方が私たちにはいるのだ!ということなのではないでしょうか。

 ネルソンさんが小学生の女の子に「あなたは人を殺したのですか?」と聞かれた時に、長い沈黙の後、「イエス」と答えたそうです。これ実話だそうですけれども、その後、その女の子が席を立ってネルソンさんの前につかつかやって来ると何をしたかというと、目に涙を浮かべながら「可哀そうなネルソンさん」と言って、ネルソンさんをこうやってハグしたというのです。ネルソンさん、動けなくなってしまって。そして涙があふれてきた。それがネルソンさんの大きなきっかけになったのですね。…私は、何かここにキリストがおられるようにも思いました。…そして、その後のカウンセラーともやり取りを繰り返す中で、言い訳のようなことを言わずに「俺が自分の手で殺したいと思ったから殺した」と言えた後、彼は二週間家で泣き続けたと言います。泣けて良かった!と思いました。私たち、いつも切り替えてしまって、忙しい忙しいとか、仕事がとか、用事がとか、他に気が向いてしまって、神様の前に立つ時間を持たない、神様がいないかのように生きていることが多いなと思います。私自身本当にそうなんです。聖書が言う「頑なさ」というのは、神様ナシとして生きることなんだなと思います。

 けれども、そういう神様を無視し、忘れる私たちに、神様ご自身が、忘れないように神様を示して下さった。それが主イエスを私たちの所に送って下さったということだと思います。箴言はただ「神様を畏れる」ではなく「主を」「あなたの主を」畏れよ、と言って下さっているんだと思います。“わたしの主、あなたの主”イエス・キリスト、です。

映画の中のネルソンさんで描かれていましたが、しばしばご自分のことを語る時に、(ネルソンさんは凄い数の講演会をされたそうです。日本でも1,200回と。)心の中で歌い唄があるというのです。それは、黒人霊歌の賛美歌で、「わたしの中の小さい光を輝かそう(A Little light of mine)」というものです。…それを歌うことで、彼は勇気づけられるんです。それは自分の心をやわらかく解放する時でもあるように思いました。

主は生きておられます!今日もこのあとの主の晩餐式を通しても、そこで私たち弱き者、不信仰な者を食卓に招き、これはわたしのからだ、わたしの血潮、これを受けよ!と声をかけて下さいます。それを受ける中で、主を畏れ、心やわらかくされて人生を進ませて頂きたいと思います。お祈り致します。