なくてはならぬものを(マタイによる福音書6章6~13節)丸山 勉 牧師 

[マタイによる福音書6章6~13節]
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』

本日は、年に一度の「永眠者記念礼拝」です。この礼拝が終わった後には、参加できる方たちと、教会墓地がある山城霊園に行って、短く「墓前礼拝」も行います。これは、もちろん既に主の御許に召された方たちを拝むことではありませんが、その方々の地上の生を思い起こしつつ、改めて、私たちの命を愛し、育まれる主なる神様を共に仰ぐ、そのような時とさせて頂きたいと思います。

今日、この礼拝のためにどの聖書個所をご一緒に味うのが良いかなと色々考えました。そして、「あぁ、イエス様が教えて下さったあの祈りが記されているマタイによる福音書6章にしよう」と思いました。いわゆる「主の祈り」の原型がこのマタイ6章にはあります。

私たちは、何度この「主の祈り」を祈ってきたことでしょう。数えきれないと思います。多くの方はこの祈りを暗唱していると思います。しかも古い歴史を持つ文語訳で礼拝で唱和している所は多いですね。つまり、この日本語の「主の祈り」は、日本の教会の歴史と共にありましたし、歴史を作って来、また今も作り続けているとも言えます。そして、それは私たち個人の間でもそうですね。皆さんは、一体いつから「天にまします我らの父よ」と祈り始めたでしょうか?ここ何年の間からという方もいれば、既に半世紀(50年、50年以上?)この祈りを祈り続けてきたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

人によっては、「主の祈り」はお題目のように思えて、自分にはしっくりしないという方もいるかもしれませんね。「祈り」というのは、もっとその人のその時の現実に即して、その人の中から出てくる言葉で祈るべきではないか、まるで押しつけられてこの言葉で祈らされているような気がする。それはどうなんだろうと思う方もいるかもしれません。実は私も教会に行って間もない頃、そう思っていた時がありました。どこか自分の心と馴染まないと言いますか…。けれどもどうなのでしょう。確かに、自分の思いからは、例えばすぐに「御名をあがめさせ給え」という言葉は出てこないかもしれない。でもこの祈りを教えられることによって、「祈り」を知らなかった者に「祈り」を、また「祈る心」を作って頂いている、作り続けて下さっているのではないか、とそう思うのです。礼拝に来ているお互いは、これからもこの祈りを祈り続けて行くことになるでしょう。そして忘れてはならないことは、今日は「永眠者記念礼拝」です。既に御許に召された方々もこの「主の祈り」を礼拝の中や日々の中で何度も何度も祈ってその生涯を生きられた、そういう歴史を持っています。そして後に続く私たちも、このように主日の礼拝で、この「主の祈り」を祈る、同じ歩みを刻んでいるのです。 今日は「主の祈り」の全体を丁寧に見ることはできませんが、この祈りと私たちの信仰の歩みは分ち難く繋がっていることに思いを巡らせたいと思っています。

ブレイディみかこさんという有名なライターの方(イギリス在住。1965年生れ)がいますが、『それはどこでも起こり得る 壊れゆく世界への抵抗』という本を出されていて、その中に、「主の祈り」について言及されている所がありました。洗礼を受けているかどうかは分かりませんが、カトリック教会と繋がりはお持ちのようです。ブレイディみかこさんは、現代は「待つ」ということが急速に減ってきていると言われます。AIなど顕著なテクノロジーの進歩、娯楽(エンタテイン)も倍速で見たり聞いたり、結末がすぐ分かるのを良しとする傾向、情報の洪水の中にいつしか踊らされていて、私たちは「待つこと」や「立ち止まること」、また自分自身の身体を通して何かを経験することを手放していないだろうかという問いを投げかけます。
そこで、ブレイディみかこさんは、「主の祈り」には、信じて「待つ」ということ、そして人生には「忍耐」と「希望」があることを示しているように思う、と語っています。
なるほど!と私は思いました。あの「主の祈り」、主イエス様はまず、「天にまします我らの父よ」と、自分という狭い世界だけを見つめるのではなく、人格的に神様という方を呼ぶ世界があることを教えてくれています。これは逆に言うなら、人生は決してバラ色ではなく、忍耐の連続であり、そのことを神様は、主イエス様はよくご存じでいらっしゃるので、あなたは神様を呼びながら生きていきなさい!とそのように優しく招いていらっしゃると思うのです。これは、主イエス様が与えて下さった世界で、私たちの中からは出てこないことです。「祈り」というのは、一般的には馬鹿馬鹿しいことかもしれません。けれども、この地上を這いつくばって生きているお互いにとって、「天」の窓が開かれていること、神様を「天の父よ」と呼びながら生きることは、人生にインスタントな「答え」はすぐ出なくとも、祈れること自体が「希望」だと思います。世界も、この私の歴史も、「今日」で終わる訳ではないということを、この祈りは開いてくれていると思うのです。「あなたは父なる神様とのつながりに生きて行きなさい」。

そして、だからこそ、と言って良いと思うのですが、「今日」という日の大切さをこの「主の祈り」は示してくれていると思います。「御心の天になるごとく、地にもならせ給え」つまり、神様の御心がこの地・世界に現わされることを祈った後、時に、とてもちっぽけとも思ってしまう私たちの日々の暮らしのことについても祈るように招いています。それは、「我らの日用の糧を今日も与え給え」。そして、それに続いて「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」です。この二つのことに注目したいのです。

日本基督教団・鎌倉雪ノ下教会で長年牧師をされていた故・加藤常昭牧師が『山上の説教』の礼拝説教の中で、こんなエピソードを紹介してくれています。―「ドイツの親しい家庭で、食前の祈りでこのような伝統的な祈りをしているのを聞いてとても心を打たれました。それは私も覚えてしまいましたがこういう祈りです。―「主よ、私どもになくてはならないものが二つあります。それをあなたの憐みによって与えて下さい。日ごとのパンと、罪のゆるしを。アーメン」。
私たちはこの体、肉体を持つ存在として、毎日どうしたって食べなければ生きて行けない。日ごとのパン。それと同じように、なくてはならないもの、それは罪の赦しであるということ。それを祈る求める、という心です。体の健康・健やかさというのはとても大事ですね。年令を重ねるほどにそれは本当に思います。(私も三日間位急に歩けなくなってしまったことがありました。今は大丈夫ですが)。そういう体を作ること・体力を維持する切実さも神様は知って下さっていると同時に、いやそれ以上に私たちは、神様と人の前に本当に健やかに生きるということは、「罪の赦し」を祈り求めることなのだと仰っていると思うのです。日ごとのパンと、罪の赦しというのは切り離すことはできないことであり、それは、私たちが具体的に生きる上でなくてならぬものの二つなのだと。

今日は、永眠者記念礼拝ということですが、週報にもそのお名前が記されています。そのご家族もいらっしゃれば、同じ教会員だった者もいます。同時期でなくても、正にこの場所で礼拝を捧げた方々が何名もおります。またここには記されていない方で既に御許に召された方々も思い起こします。そのお一人おひとりも、主イエス様が教えて下さった「主の祈り」を祈り続けていきました。「天にますます我ら父よ」と神様を呼び、「日ごとの食物」と、「罪の赦し」を祈ったのです。私たちは、その後に続いて、今を生きています。或いは今日は、ここにはやはり名前が記されていない、既に召された私たちの家族のことにも思いを馳せざるを得ません。私自身も、この川越教会に赴任してから、両親、また妹と死別しました。…どうでしょう。私たち、何年経っても別れた肉親との関係を思うと、良い思い出もありますけれども、「悔い」と言いますか、もう少しああ出来たらよかったな、あんなことを言ってしまった、ごめんなさいという感情もまた出て来ます。でも、しょうがないですよね。スッキリしないのが人生なんだと思います。でも、イエス様は、私たちが弱い人間であること、罪を犯さないでは生きていけない存在であることをよくご存じなので、この「主の祈り」を教えて下さったのだと思います。あなたは天を仰ぎ、神様を呼んで生きて良いのだと。そして、そのためにご自身が、あの十字架で、私たちが受くべき神様の裁きを負って下さった。「その大きな愛を受けて、あなた方は赦し合って、受け入れ合って生きて行きなさい」。「主の祈り」は、深い神様の計画の中で、十字架のもとから私たちに届いているのだと思います。
お祈りいたしましょう。