預言者エリヤが語ること (2)(列王記上18章21、25~39節) 丸山 勉 牧師

[列王記上18章21、25~39節]
エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」
エリヤはバアルの預言者たちに言った。「あなたたちは大勢だから、まずあなたたちが一頭の雄牛を選んで準備し、あなたたちの神の名を呼びなさい。火をつけてはならない。」彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、「バアルよ、我々に答えてください」と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。エリヤは、主がかつて、「あなたの名はイスラエルである」と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種二セアを入れることのできるほどの溝を掘った。次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、「四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ」と命じた。彼が「もう一度」と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に「三度目を」と言うと、彼らは三度同じようにした。水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。

本日は、先週に引き続き列王記上の中から預言者エリヤの物語を見て行きたいと思います。やはり今日の個所も、先週木曜日の「聖書の学びと祈り会」で与えられた箇所です。私はこの箇所は、今こそ私たちが聴くべき個所として神様から与えられたように思ったのです。折しもこの10月は、教会史的にも重要な月です。10月31日は、今から約500年前のマルチン・ルターによる宗教改革記念日です。そして「宗教改革」というのは、別に国家の宗教が変わったという訳ではなく、言わば「宗教改革」とは、「教会改革」です。教会にとって何が一番大切か、ということを取り戻したと言いますか、その点に立ち返ったということを覚える日だと思います。そしてそれは、今日の個所に記されている、紀元前9世紀に北イスラエルに起こった、預言者エリヤによる、信仰共同体であるイスラエルの民を、信仰の原点に立ち戻らせる出来事と深く繋がっていると思うんです。

エリヤという人が現れたのは、アハブ王の時代で、彼はサマリヤに神殿を建て、王妃になったイゼベルの影響もあって、その神殿に偶像であるバアルの祭壇とアシュラの像を据えたのですがそれはこれ迄のどの王にもまして主なる神の怒りを招くこととなったのです。そのままであったら、この時点で北イスラエルの歴史は終わっていたかもしれません。そこで神様からこの危機の時代に送られたのがエリヤです。今日の個所は先週の列王記上の17章に続く、18章になります。

エリヤは数年間、飢饉の中で身を隠していたのですが、遂に神様によってアハブの前に立ち、イスラエルの全ての民に向かって、主なる神を信じるのか、或はバアルを信じるのか、信仰の態度決定を促すのです。正にこの当時の宗教改革です。そしてその時、エリヤはただ一人、主なる神様から遣わされた者として、バアルの預言者450人、またアシュラの預言者400人とカルメル山で対決をするのです。その描写はまるで劇画のように、とてもドラマティックです。実際これは、イスラエルの宗教史にとって、最重要な出来事の一つなのです。
そもそもエリヤという名は「主はわたしの神」という意味で、エリヤの生涯も、ただ「主」が「神」であり、それ以外は神ではないことを示すための生涯でした。彼はよく「モーセの再来」とも言われるのですが、それは、今日も招きの聖句で読んで頂いたあのモーセの十戒の序文と第一戒に立ち返らせることが何よりの使命でした。それはこういうことです。―「わたしは主、あなたの神であって、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。(ちなみに第二戒は、「偶像を造ってはならない」です)。それは、信仰共同体(教会)の土台を失っては、もはやその共同体は崩れ、立ち行かなくなってしまうということであり、そのための神の呼びかけなのです。

私はこの中で特に幾つかの御言葉とその意味に注目をさせて頂きたいと思いました。一つは、21節です。「エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」 ここで面白いと思うのは、「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか」という言葉です。つまりイスラエルの民は、迷っているというのです。考えてみれば、迷うというのは、自分が主体だからです。それで良い場合もあります。何を食べようかとか、どういうお花を活けようか、とか、沢山のバラエティの中でその時々に選択していくことは人生の彩りですよね。けれども、神様をその時々の気分で選ぶというのは、人格ある神様をモノ化することで、それこそ偶像化です。信仰とは、ある意味、結婚と似ています。その時の気分や、いいとこ取りで結婚は出来ないと思います。結婚は人格と人格の結びつき、「この人と一緒に生きていく」という選択で、そうでないと失礼なことになりますよね。ここでも「どっちつかず」ではなく、生き方を鮮明にしなさい、ということです。エリヤは、大勢のバアルの預言者たちとカルメル山で、まことの神であるなら、献げた生贄に火をもって答えられる筈だ、と挑戦するのですが、バアルの預言者が朝から昼過ぎまでバアルを呼び求めても一向に変化はありませんでした。彼らは文字通り一生懸命なんです。しかし偶像の神は命がありませんから、答えることが出来ない。そしてこれは恐いことだと思うのですが、預言者たちは自分の体を剣や槍で傷つけ、血を流しながら叫び続けたと書いてあります。私は思いました。あぁ、命無き偶像に頼ろうとする行為は、結局は自らを傷つけること、自分の尊厳も傷つけることになるのだなと。

それに対して30節をご覧ください。エリヤは、まず、すべてのイスラエルの民にこう呼びかけるのです。「エリヤはすべての民に向かって、「わたしの近くに来なさい」と言った。」 そこに集められた全ての民です。今や多くの者達が、どっちつかずになり、偶像も悪くはないと思ってしまっている、そのような者たちも含めた「すべての民」です!‟信仰のある者も、信仰を失った者たちも来たれ!”と呼びかけているということでしょう。そしてエリヤは壊れた祭壇を築き直すにあたって、12の石を用いたというのも意味があります。これはイスラエル12部族全てが捨てられてはいないのだとエリヤは信じ、また、そうとりなしをしているということでもあるでしょう。そして、祭壇の周りを整備し、雄牛の献げ物と焚き木の上に三度もたっぷりと水を注いだ後で、エリヤはこう祈りました。
「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう。」 ここで「アブラハム、イサク、イスラエルの神」と呼びかけています。これまで出エジプト記などでは「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方ですが、ここでは敢えて「イスラエルの神」と言っていて、まぁヤコブの名前がイスラエルになったということでもあると思いますが、ここサマリヤは北イスラエルなのであって、この偶像に支配されかかっているイスラエルのまことの神よ、という意味もあるのではないでしょうか。
このエリヤは、本当に新約聖書の主イエス・キリストの先駆者だと思うのです。キリストは呼びかけられました。「すべて重荷を負うものはわたしのもとにきなさい」(マタイ11:28)。また、イエス様が山上の説教(マタイ5~7章)をされた時も、すべての弟子たちを御許に招いているのです。エリヤがここでしている行為は、全ての人に対する公の呼びかけです。そして、まことの神様を見失いそうな危機の中にある信仰共同体に対する回心の呼びかけと招きがここにはあります。

さて、カルメル山上で何が起こったでしょうか?主の火・炎が下ったのです。18章の38~39節をもう一度お読みします。「すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」

「火」というと、あの出エジプト記のシナイ山での燃える柴を思い起こさせます。それは生ける神の臨在も表しているでしょうし、また新約に生きる私たちは、「火」や「炎」が「聖霊」の象徴であることを知らされています(cf.ペンテコステの出来事)。「火」は私たちの古き人を殺し、新しき人へと造り変えてくれる聖霊です。イエス・キリストの霊です。十字架と復活にハッキリ示された神様の愛と憐みの霊です。その愛に打たれて、焼かれて、私たちの中には新しい賛美が沸き起こってくるのだと思います。

新しい歩みに導かれようとしている川越教会の生命線は、これまでもそうでありましたし、これからもこの御言葉だと思います。―「これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」 

丁度一年前の10/12の週報の巻頭言を見ていましたら、私はそこでこんなことを書いていました。
「先月の「川越教会、どう作る」第9回の話し合いの議事録を教会員BOXに配布しました。皆さんの意見は皆とても大事だと思いました。たとえば、「牧師の選定以上に、これからの教会、私たちは何を大切にしていくのかを話し合う必要があるのではないか。その中で私たち自身が成長していきたい」「教会とは何なのかに思いを巡らすことが少なくなっているように思う。伝道開始記念礼拝で川越教会の信仰告白を皆で読むことなどがいつの間にかおろそかになっていることを危惧する」と。…改めて読んで、良い話し合いがされていると思いました。

信仰告白というのは、もちろんお題目ではありませんよね。私たちが日々信仰に生きていくことを互いに励まし合っていくということ(週報裏面の小林茂さんの証も是非お読みください。また、是非、お書き下さい)。いつも新しく御言葉に感動していくということ。祈り合っていくということ。上からの「火」を求めてゆきたい。イエス様の愛に押し出されて行く私たちでありたいと願います。
お祈りを致します。