み言葉は働く(詩編1編1~6節) 丸山 勉 牧師

[詩編1編1~6節]
いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

今日から11月を迎えます。今年もあと2ヶ月ですね!この11月は、一番最後の日曜日の29日から、アドベント・待降節に入りますが、「聖書教育」誌に従うと、今月は旧約聖書「詩編」からいくつかの詩編を選んで味わう様になっています。そして今日は「詩編1編」です。全150編ある一番最初の詩編であります。そしてこの詩編は、詩編全体を網羅するような形で「このような人は幸いである」「いかに幸いなことか!」という、「幸い」への招きから始まっている詩編です。

この詩編が語っているメッセージは、‟み言葉と共にある生活”だと思います。実はこの詩編とその内容・中身がとても共通している詩編は、詩編の中でも最長の119編です。119編1~2節にはこうあります。「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り、心を尽くしてそれを尋ね求める人は。彼らは決して不正を行わず、主の道を歩みます」。
詩編1編には「主の教え」という言葉が出て来ますが、「主の律法」とか「主の定め」と同じように括ることが出来ます。つまり、「神様の律法」「神様の言葉」、「御言葉」ということです。
今日の詩編は、一見私たちに厳しく響いてきます。神様に逆らう者の末路は、まるで「風に吹き飛ばされるもみ殻のよう」だと。その反面、神に従う者の道は、時が来れば実を結び、葉もしおれず、なすところすべて繫栄に繋がっていくと言います。これは道徳的に真面目に生きて行け、という単なる教訓的なことなのでしょうか?そうではないと思います。やはり鍵になるのは「主の教え」とか「み言葉」だと思います。

私は今回準備をしていて、この詩編について優れた説教が手元にあることに気付き、それからとても恵みを受けましたので、今日はそのメッセージを少しご紹介しながらこの詩編を味わわせて頂きたいと思います。

ルードルフ・ボーレンという、2010年に召されたドイツで活躍した牧師・神学者です。『祝福を告げる言葉』という説教集です。(翻訳・加藤常昭氏)。この詩編1編の説教の中で、彼は「私たちは、実はみ言葉に囲まれている」と言います。
「この詩人は、幸いだと言う。その幸いは、一つの前提を持っています。一つの秘密を持っています」と語り、こう続けます。「神のみ言葉が、この人を四方八方から取り囲んでいます。それはちょうどこのグリンデンヴァルトにいる私たちが、アルプスの山々に取り囲まれているのと同じです。この人は昼も夜もみ言葉の中にあります。神のご臨在の中にあるのです」。目に浮かんでくる大きなイメージです。そして、「それは私たちが気が付かない時も、その事実は変わらない。あなたが眠っている時でも、山々があなたを囲んでいるのは変わらないように、あなたの生活は父・子・聖霊なる神のご臨在に取り囲まれているのだ」と言います。

この詩編は、二つの対比を語っている訳ですが、まるで大きな山々のように自分を取り過こんでいる「み言葉」を自分のものにする人の幸いとはどういうものなのであるかをこのように語ります。
「詩編第一編が語る人は、この人は神のおきてについて昼も夜も思いめぐらしています。この思いめぐらすという言葉に当てはまる言葉は、ラテン語聖書の翻訳では、黙想をするという言葉です。黙想をする者は幸いである!」「では黙想するとはどういうことでしょうか。ヘブル語原典においては、この思いめぐらすという言葉にイェーゲーという言葉が使われています。」「この言葉は、聖書の言葉を小さな声で、つぶやくようにして自分自身に読み聞かせるということを示します。幸いと呼ばれるこの人は、そういうことをしているのです。私たちもそれをすることが出来るのです。なーんだと思われるかもしれません。自分で聖書を声に出して読むことそれだけを繰り返していくのです。小さな声でつぶやくように自分自身に聖書の言葉を読み聞かせていくのです。」
そして。面白い譬えをボーレン氏は語るのです。こういうことです。この「イェーゲー」という言葉は、何かを探し求めてクークーと喉を鳴らしている鳩を言い表しているのだ、と。つまり、捜し当てるまで諦めない姿がそこにあると。もう一つは、この言葉はライオンについても用いられて、自分の獲物を見つけたら、その上に座り込んで気持ちの良いうなり声をあげて楽しむ。そのようにみ言葉を自分のものにするということだと。そして、そうしたらそれを自分の前足でしっかり掴んで離さないようにして頂きたい、と言います。「あなたはその言葉で自分を強くすることが出来ます。自分自身に、そしてあらゆる悪に打ち勝つことが出来るようになるのです。み言葉について昼も夜も思いをめぐらすということは、このように二つの意味を持ちます。鳩のように喉を鳴らして求め続けることと、ライオンのように、それを得たら満ち足りて喜ぶということです」と。
「み言葉に生きる」ということを色々な表現で語っている詩編119編でもこう記されています。119編162節(口語訳)「わたしは大いなる獲物を得た者のように、あなたのみ言葉を喜びます」(新共同訳では「戦利品を得たかのように」)。

私はボーレン先生の説教を読んで反省をしたのです。何か自分がみ言葉を語ったつもりになってはいないかと。偉そうに。全くそうであってはならないのだと。当然ですが、み言葉は自分が持っているのではなく、自分にやって来る、実はもうそれに囲まれていることに気付くまで、クークーと鳩のように求めることをやっているか?と。ボーレン氏は説教でこう言います。「一つの言葉、一つの文章の回りをうろうろと歩き回り、それを自分自身の中に受け入れることが出来るまで鳴き求めるのです。説教は牧師がアーメンと言ったらそれで終わりではなく、むしろ自分でその説教を自分でそこから自分で始めていくことが出来るような人、そのような人こそ幸いなのです。」 これは、説教の聞き方ということでもあります。聞いてその場で完結して終わりではなく、ご自分の中でそこから始まっていく、ということですね。そして説教者は、「語った終わった」ではなく、自分も一緒になって、それこそ求めていくこと、そして「頂いた」と思ったら、それを何度も何度も反芻していく、み言葉の味を味わっていくことが大事なんだと思いました。皆さんの中にみ言葉が残っていく、いや、むしろこの場から心に広がっていく、何度も思いめぐらし、ご自身の‟問い”になっていく、そのような礼拝でありたいと思いました。

今日の詩編1編3節で、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない」という所がありますね。ここの所に私はハッとさせられたんですね。私たち、まるで植えられた木のように、そこに放置され、私は孤独だと思うような時もあるのではないかと思うのです。木は自分では動けません。けれど、その場所は‟流れのほとり”なんだと。必ずみ言葉は流れて来る。み言葉は私たちのために、私のために生きて働く。そして私を覆って下さる。自分はうずくまっていても、実は神様のみ言葉がすぐそばにある。そして「み言葉」なる主イエス・キリストご自身が私たちに近づいてきてくださる!あの失意の内にエマオに帰って行こうとした弟子たちにイエス様の方から近づき、寄り添い、対話を始めて下さったように、私たちは神様の「流れのほとり」に生きている、生かされているんだな、何と幸いなことだろうか!と思いました。

ボーレン氏は、この説教の最後の方でこうおっしゃっています。―「私たちは新約聖書からすればこのように言うことが出来るのです。詩編1編の語る人とは、イエスの内にとどまる人のことです。イエスが私たちの内にとどまる。私たちがイエスの内にとどまる。よみがえられたイエスは、私たちの内に住まいを定めようとしておられる。それゆえにこそ、イエスの言葉との関りを断つことはゆるされません。この生けるみ言葉との関係からのみ、あのいつまでもとどまる実が育ってくるのです」。

昨日10月31日はルターの宗教界改革運動が始まった日ですが、16世紀の宗教改革というのは、み言葉・聖書をめぐる運動でした。「聖書を民衆に取り戻す運動」であったと言えます。全ての人が、民衆が、聖書の言葉に、また主イエス・キリストに生かされることの尊さをルターは体験した。流れのほとりに置かれたルターがライオンのように喜んで立ち上がったということがあったのでしょうね。そしてそれは私たちも同じなのだと思います。あのマルチン・ルター作詞作曲の讃美歌『神はわがやぐら』の中にこのような歌詞がありますね。「暗きの力のよし防ぐとも、主のみ言葉こそ進みに進め!」。お祈り致します。

愛する主よ、私たちの回りはみ言葉に囲まれていることを感謝します。私たちが、自分の罪や弱さで孤独に陥っていても、み言葉は私たちを訪れます。イエス様は、まことのみ言葉として来てくださいました。そして私たちを捕え続けて下さいます。その事実に、何度も何度も立ち帰ることが出来ますように。み言葉をいつも喜んで口ずさむその心を与えて下さい。この世界が既にみ言葉で覆われていることを深く知り、隣人と共に生きていくことが出来る者として下さい。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。