[テモテへの手紙一6章11~21節]
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。万物に命をお与えになる神の御前で、そして、ポンティオ・ピラトの面前で立派な宣言によって証しをなさったキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。神は、定められた時にキリストを現してくださいます。神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。
この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。
テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。恵みがあなたがたと共にあるように。
新約聖書マルコによる福音書1章に、主イエス様が初めに登場すると、すぐに海辺で、漁の網を打っていたペトロと兄弟アンデレに対し「わたしについてきなさい」と呼びかけたという記事が書いてあります。聖書には、「二人はすぐに網を捨てて従った」と続けています。更には、イエス様はまた二人の漁師、ヤコブとヨハネとに声をかけると、その二人は、父親や雇い人をも残して、その主に従って行った、ということが記されています。これは理性的に考えると、ちょっとあり得ないような話と言えると思います。「そんなに簡単に、しかもその生業や、家族などを置き去りにしてでもすぐに呼びかけられた方に従っていくなんて考えられない」。けれども、どうなのでしょう。私たちは皆、全ての自分なりの準備が整い、納得できたから主イエス様を信じ、信仰生活をしていこうと決心したのではないと思います。むしろ、説明がつかないようなことです、信仰に生きるということは。そして言えることは、こちら側の条件ということ、資格ということによってではなく、ただ、主が私を招いて下さった、というその招きの事実が、信仰の根拠であり、信仰に生きることを支えてくれていることだと思うのです。この「捨てて」というのも、「捨て去る」「無視する」という意味合いより、「一旦脇におく」といった意味もあるようです。
今日は「テモテの手紙一」の最後の部分を読んで頂きました。これは使徒パウロが、自分の愛する若い弟子テモテが恐らくエフェソの教会での伝道・牧会を励ましている手紙です。地中海沿いの紀元1世紀の異邦の国です。偶像礼拝や異端的な教説も入ってきますし、その群れの中でもいざこざが絶えない。その中でパウロは、教会員に対してと言うよりも、その群れをリードしていく役目を負っているテモテに対し、今日の所では、11節で「神の人よ」と呼びかけ、あなた自身がしっかりと立って行け、と背中を押しています。言われた方はちょっとプレッシャーを感じてしまうのでは?とも思ってしまいますが、よく読むと、今日の所でも慰めに満ちた言葉や、信仰に生きることの喜びを示す言葉も散りばめられていると思いました。
例えば12節には「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」と、私たちの信仰というのは、この世では与えられない、朽ちない命とつながっていることを述べていますし、14~15節では、「主イエス・キリストが再び来られるときまで」とか 「神は、定められた時にキリストを現してくださいます。」と、私たちの忍耐を可能にする主の再臨の約束を思い起こさせています。またこの世の富があれば人生大丈夫なんだと、まるで富が神になってしまうような考え方に対して、17節以下で「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」と語っています。この言葉、良いですね!「わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」。神様、イエス様は、私たちの人生に楽しみを与えて下さるのです。確かに私たちの人生、生きていく中でお金も大事、健康も大事ですが、たとえそういう条件が厳しくなったとしても、悩みは尽きないけれども、それでもなお生きることは楽しい!と言える人生を与えて下さる、それが主にある信仰なのではないでしょうか。
この聖句を思いめぐらしていた時に、ふと思い起こした人がいます。小倉昌男という方のお名前をご存じでしょうか。この方は、経営者として著名な方で、既に2005年に召されたのですが、ヤマト運輸(ヤマト・ホールディングス)の元代表取締役です。「宅急便」の生みの親とも呼ばれる方で、クリスチャンでした。元は救世軍の信徒でしたが、お連れ合いの玲子さんが麻布のカトリック教会の信徒であり、還暦を過ぎてから、カトリックに転籍しました。この小倉昌男さんの生涯をノンフィクションにした方の本があって、そこから少しご紹介させていただきたいと思うのですが、書かれた方は森 健という作家・ジャーナリストで、本の題は、『小倉昌男―祈りと経営―』です(小学館)。
著者の森さんが小倉さんに注目したきっかけというのは、あの東日本大震災の後で、ヤマト運輸が、けた外れの莫大な寄付をしたのです。それは「宅急便1個につき10円寄付します」ということをして、計142億円を献げたということ(次のNTTが10億円)で、その時の木川社長が「これがヤマトのDNAだ」と語り、そのDNAを作った小倉さんとはどういう人なのか?という疑問からなんだそうです。実は小倉さんは、ヤマトの会長を退いてからも、障碍者の方が働けるパン屋を作ったり、かなりの私財をなげうってヤマト福祉財団を作ったりもしました。森さんが、小倉さんのことを知っている人たちに取材をすると、面白いことに、組織の上の人よりも、労働組合で頑張っていた人たちの方が喜んで取材に応じてくれたというのです。「小倉さんはとにかく優しい人だった」と言うのです。そういう性格もあり、福祉にも身を投じて行ったのだろうというようなことも何となく分かってくるのですけれども、実は、表面に出ない、家庭の中の問題が大きくあったということも、取材の中で分かってきたというのです。
小倉さんには、二人の子供がいて、真理さんという女性と、康嗣(こうじ)さん(ヤマトの後を継ぎます)ですが、その真理さんと母親の玲子さんは、物が飛ぶようなものすごい喧嘩を何度もしていたようなことがあったということがあったそうです。真理さんはしばしが「キレて」しまう子だったんです。また、こんなこともあった。今から40年位前ですが、真理さんが選んだ結婚相手というのが、アメリカで知り合った海軍の黒人の屈強な男性だったと。それで小倉さん自身は自分は偏見がないつもりだったけれど、受け入れられない心もあったと。母親の玲子さんは、親戚の者たちからは「あなたがちゃんとしていないから」と非難を受け、心がだんだん厳しくなっていったそうです。けれどもその後、赤ちゃんが生まれると、やっぱり可愛い!ということになって落ち着くのですが、しばらくして、思いがけないことが起こります。母親の玲子さんは心臓の狭心症を抱えていたのですが、薬を飲むことが遅くなり、亡くなったという知らせが入ってきたのです。表向きはそうなのですが、どうも自死ではなかったか、ということが本には書かれています。当時娘の真理さんは境界性パーソナリティー障害という病の診断を受けていました。それで母親の死を受けては鬱病も患い「私のせいだ!」と自分を責めてしまう。小倉さんは「いや、真理のせいじゃない、パパのせいなんだ」と言って宥めるのですが、もちろんご自身も大変な苦しみを負って、玲子さんのご遺体が運ばれた時には、誰に見られても構わずわんわん泣いていたということだそうです。その後2年間程は小倉さんは何も出来ずにいらしたそうですが、その後で福祉財団を立ち上げられたということです。立ち上げの背後には、そんな小倉さんの深い思いが隠されていたということです。そしてがんも患っており、80歳の時に心不全で亡くなりました。娘さんの真理さんはと言えば、薬のおかげもあって病気からも回復しました。そして「自分も神様の「コーリング」(呼びかけ・召し)が何なのかを考えています。それは精神障害へのサポートではないかと考えています。ようやく動けるようになった今そう考えています」と語ったということです。
亡くなった小倉昌男さんが生涯大事にした祈りと言うのがあるというのです。それが、週報巻頭言にも載せた「ラインホルド・ニーバーの祈り」です。こういう祈りです。
<神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ>
イエス様は弟子たちを呼び出しましたが、それはガリラヤでしたよね。そこは田舎であり、病気や悩む者に満ち満ちているこの世界です。そこで弟子たちはイエス様の後についていきます。「ガリラヤ」は、私たちの生きる現場です。「ライブ場所」です。その現場で、それこそ「変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別」しながら、祈りながら進んでいくことを小倉さんの生き様が示すように、イエス様は示してくれているのではないでしょうか。「識別」とは、祈りの中で選び取っていくということですね。いつも御心を聴いていく。また、助けを求めていく。私たちは弱いんです。でも、弱いから祈れるのです。これは、人間の尊厳そのものだと私は思います。主に呼ばれて、それぞれ与えられたガリラヤで許される限り、生きていきたいとと思います。パウロがテモテに語ったように、「主は、定められた時にキリストを現してくださいます」から。 お祈り致します。