[サムエル記上24章1~20節]
ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害にとどまった。ペリシテ人を追い払って帰還したサウルに、「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者があった。サウルはイスラエルの全軍からえりすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」の付近に向かった。途中、羊の囲い場の辺りにさしかかると、そこに洞窟があったので、サウルは用を足すために入ったが、その奥にはダビデとその兵たちが座っていた。ダビデの兵は言った。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです。」ダビデは立って行き、サウルの上着の端をひそかに切り取った。しかしダビデは、サウルの上着の端を切ったことを後悔し、兵に言った。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」ダビデはこう言って兵を説得し、サウルを襲うことを許さなかった。サウルは洞窟を出て先に進んだ。ダビデも続いて洞窟を出ると、サウルの背後から声をかけた。「わが主君、王よ。」サウルが振り返ると、ダビデは顔を地に伏せ、礼をして、サウルに言った。「ダビデがあなたに危害を加えようとしている、などといううわさになぜ耳を貸されるのですか。今日、主が洞窟であなたをわたしの手に渡されたのを、あなた御自身の目で御覧になりました。そのとき、あなたを殺せと言う者もいましたが、あなたをかばって、『わたしの主人に手をかけることはしない。主が油を注がれた方だ』と言い聞かせました。わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした。それにもかかわらず、あなたはわたしの命を奪おうと追い回されるのです。主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。古いことわざに、『悪は悪人から出る』と言います。わたしは手を下しません。イスラエルの王は、誰を追って出て来られたのでしょう。あなたは誰を追跡されるのですか。死んだ犬、一匹の蚤ではありませんか。主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくださいますように。」ダビデがサウルに対するこれらの言葉を言い終えると、サウルは言った。「わが子ダビデよ、これはお前の声か。」サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。」
少し長い個所を読んで頂きました。今日の聖書の個所の背景になっていたのは、初代イスラエルの王サウルが、やがてイスラエルの第二代目の王となるダビデの命を狙い続けているということです。それは、あのペリシテの巨人ゴリアトとの一騎打ちにダビデが勝利したその後から、イスラエルの人々は一気にダビデを称賛し、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌い交わすようにもなり、そのためサウル王は嫉妬でひどく苦しんだのです。少し遡りますが、18章9節以降にはこのような話が記されています。―「この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった。次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが、ダビデを壁に突き刺そうとして、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした。」 サウルは大分尋常な状態ではなくなっています。その後の章では、サウルの息子の一人ヨナタンが父の暴力からダビデを守り、逃れさせるという話も描かれています。ダビデは取り敢えず助かりました。しかし今日の24章で、なおサウルはダビデを無き者にしようとして、兵三千人を率いて、ダビデが隠れていると聞いた荒れ野に向かうのです。
どうでしょう、ダビデの立場に立ってみれば、もうイヤになりますよね。もしも私たちが、「誰かがあなたの命を狙っている」と知らされたとしたら、穏やかな生活など出来なくなるのではないでしょうか…。ダビデとその一行は、大きな洞窟の中に潜んでいたその場所に、サウルが用を足すために入り込んできたのです。どうなったでしょうか?ダビデは、油断していたサウルをそこで仕留めることが出来たのに、また兵士達が今がチャンスと進言したのに、サウルを殺すことをしませんでした。ここには、ダビデの内的な戦いがあったと思います。ダビデは自分で考え、殺すことを選びませんでした。いや、「出来なかった」と言っても良いと思います。
私、少し前に、日本映画で『木挽(こびき)町のあだ討ち』という映画を観ました。永井紗耶子(さやこ)さんが3年前ですか、これで直木賞を受賞した同名の小説が基になっています。私が今年見た日本映画の中ではとても素晴らしい作品だなと思っているのですが、木挽町というのは、今の東銀座あたりで、時は江戸時代の後期、そこで、自分の父を殺された若い息子菊之助が、江戸に潜んでいる仇の作兵衛に、多くの者たちが集まっている芝居小屋の前で仇討ちをするというのが表面的な話なのですが、そこには隠れたテーマというものがあるようです。それは、「仇討ち」そのものを問うているのです。映画の中では、短いシーンなのですが、沢口靖子演じる菊之助の母、たえがこう語る場面があるのです。「仇討ちなどというのはくだらぬ掟だ。くだらぬ掟や意地のために夫が死に、今度は息子が人を殺めなければならない。」 これは、「やられたらどこまでもやり返せ、それが義を貫くことだ」という人間の思いに対するアンチテーゼであり、冷静な判断です。「仇討ち」は当時は届け出をすれば許される合法的な成敗(せいばい)で、言ってみれば合法的な殺人です。昨日は8月15日でしたけれども、「戦争」というのは、今でも続く国家による殺人許容ですよね。しかし、もちろん殺された者も悲惨ですし、戦争を体験した者や、家族にとっては、癒えるのが困難な傷を負うことになることを私たちは知っています。『木挽町のあだ討ち』を書かれた永井紗耶子さんは敢えて「仇討ち」を「あだ討ち」としているのも意味が深いと思います。
今日のこのダビデとサウル王の緊迫した場面、これは当事者にとっては「生きるか死ぬか」「生かすか殺すか」というギリギリの人間の選択が問われている場面です。私たちだったらどうか…。ダビデにしてみれば、サウルを殺す正当な理由もあったと言えます。サウルは自分を執拗に殺そうとしているのですから。…しかし、ダビデは、敵であるサウルを殺さなかったのです。そして、もうその戦いを終わりにしたかったのでしょう、私は、王よ、あなたのすぐ背後にいたのだけれども、上着の裾を一部切り取っただけに留めておいた、とサウルに語ります。サウルはそれを聞いて驚き、こう言いました。24:17後半からお読みします。「サウルは声をあげて泣き、ダビデに言った。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。」
実は、この後の26章にも似たような話が書かれていて、それは繰り返しと言うより、伝承が複数あったのをそのまま記したのではないかと言われます。もし繰り返しであったら、サウルは本当に懲りない人間だということになりますが、ここでサウルは一度悔い改める言葉を語っています。24:20後半では「今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう」と語っています。一件落着のような描写です。…そして、私が興味深いと思うのは、サウル王自身、自分が殺されてしまっていてもおかしくない所を命拾いしている、ということに初めは気が付いていないということです。今生きているのは、ひとえにダビデの憐みの故であるということ。「今、初めて本当のことが分かった」と言う体験をサウルはしたのです。ダビデが明かさなければ、ずっと知らなかったでしょう。…これって、神様の私たちに対する救いと同じなのではないでしょうか。
今度はちょっとサウルの身になって見たいと思います。彼は一国の王です。サムエルによって神に選ばれた者として油注がれた者です。それがいつしか若きダビデへの嫉妬の思いに駆られて、自分を竪琴で慰めてもくれる彼を無き者にしようとしているのです。自分の兵も動員して追いかけて。無茶苦茶です。もしもダビデに殺されてしまっても、ああ、そうなのかと、多くの者が納得してしまうかもしれません。けれども、そのサウルはダビデによって滅ぼされることはありませんでした。この時、サウルは一方的に赦されたのです。自分が「知らなかった」内に、ダビデの憐みが働いたのです。私はこれは、神様の救いのひな型のように思えてなりません。
なぜダビデは、サウルを討つことをしなかったのでしょうか。ダビデは言いました。「(この人は)主が油を注がれた方だ。」(11節)。ダビデは、神様の主権を信じました。13節にはこうあります。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しはしません。」 …「主があなたとわたしの間を裁き」 とありました。この言葉は、本当に大事な言葉ではないでしょうか。私たち、必ず誰かとの間で、自分では解決不能な迷路に入り込むことがあると思いますが、「主があなたとわたしの間」にいて下さるということ、これは覚えておきたいこと、そしてこれに優る慰めはないと思うのです。そして、どんな人も、例外なく神様に愛されているのです。パウロは言いました。「この兄弟のためにも主は死んでくださったのです」(コリント一8:11)。その兄弟が主を知っていても知らなくとも、主はその方のために死んでくださったと言うのは事実だということです。
主イエス様の私たちへの救いというのは、私たちが知らなかった時、私たちの「外」でして下さった救いです。本当に主がして下さった救いの恵みの大きさ、十字架の救いの大きさは、かの日がやって来るまでは私たちには片鱗しか分からないのだと思います。けれども、それで十分です。
今日ご一緒に歌いたい讃美歌は524番の「なにゆえみ神は」です。5節ある全ての歌詞に共通する言葉がありまして、それは「知るを得ねど」と言う言葉です。
私たちがどういう所から救われたのか、その深みは今は分からないけれど、今主の愛によって救われているのは確かなことだと確信する、という歌です。本当にそうです。「主はこんな罪人も裁かれないで、討たれないで、むしろ、天の国の食卓に招かれている。私たちにも救いの油、そして聖霊が豊かに注がれている」。それに私たち、「アーメン」と言わせて頂けるじゃないですか!その時、私たちはこの時のダビデのように、自分の復讐とか、敵愾心とか、仇討のような思いからも解放され、ただ神様に信頼して生きていく“自由なキリスト者”として明るく生きて行けるのではないか、そんなことをここから受け取りました。
8月は平和を祈り求める月です。「敵を愛し、祈りなさい」と私たちに仰って下さっているキリストの招きに、私たち、自分の歩幅で従って行けますようにと祈ります。
お祈り致します。