無謀な戦い(サムエル記上17章32~45節)丸山 勉 牧師

[サムエル記上17章32~45節]
ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。ペリシテ人は、盾持ちを先に立て、ダビデに近づいて来た。彼は見渡し、ダビデを認め、ダビデが血色の良い、姿の美しい少年だったので、侮った。このペリシテ人はダビデに言った。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか。」そして、自分の神々によってダビデを呪い、更にダビデにこう言った。「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。

「ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」(サムエル記上 17章32節)。
「あのペリシテ人」というのは、17:4にその名が出てくるゴリアトのことです。多分ゴリアテという名前で憶えている人が多いと思います。これは、ペリシテ人の大男であって、身長が2メートル半もあったということです。しかも物凄い武装もしていて、イスラエルの民に、かかって来いや!俺に勝ったら我々はお前たちの奴隷になるが、俺が勝ったら、お前たちが奴隷になって仕え!と挑発し続けます。それを受けたのが、少年ダビデでした。有名な物語です。ダビデは、ここから一気にイスラエルで英雄的な存在になり、称えられるようになりました。皆さんはこの物語の信仰的意味をどのように捉えていらっしゃるでしょうか?週報に、この物語の意味の代表的な捉え方をいくつかご紹介致しました。―「人間の目には不可能に見える大きな壁や試練も、神の助け(万軍の神の御名)の故に打ち破ることが出来る」。「悪の力に勝利するためには、鎧や武器は必要ではない。石ころ一つでも神様がお用いになれば、不思議な方法で勝利に導かれる、それは祈りを象徴している」。「ダビデはまず“恐れ”という自分との戦いに勝利した。“神共にいます”という確信が、その恐れも消し、勝利を与えられる」。―どれもある意味納得です。それなりに励まされるし、教えられます。ただ、皆さんこのダビデのゴリアトとの戦いの話、どこか引っ掛かりと言うか、モヤモヤした気持ちにならないでしょうか?

このダビデとゴリアトが戦った場所の名が17:2に書かれてあって「エラの谷」というのです。戦地。イスラエルの民が陣取っている山とペリシテ人が陣取っている山の間にある低い谷ですね。
実は私、もう10何年も昔ですが、ある映画を見て、ハッとさせられたことがあったのです。その映画とは元々の英語のタイトルが、『In the Valley of Elah (エラの谷)』というものです。アメリカが、フセインの時代の時のイラクとの戦争で、その戦争の帰還兵のトラウマ(PTSD)を描いた作品です。派手なシーンは殆どありません。内面に寄り添った良い映画です。日本語では『告発のとき』というタイトルになっています。

詳細は省きますが、この中で、まだ幼い少年にベットで寝る前に、大人がこのダビデとゴリアトの戦いの物語を話して聞かせる場面があるのです。「君は自分の名前がどこから取られたか知ってるか?」と言って、多分「デイビット」なのでしょうね、「元は旧約聖書のダビデ王から来ているんだよ」と言って、そのダビデが、巨人ゴリアトに、石っころを石投げひもを使って飛ばして額に当てて勝利したのだけれど、それはまずダビデが、自分の中の恐れから打ち勝ったからなんだと語るんです。少年はその時はフーンと聞いているんです。そして、映画の最後の方にもう一度、今度はこの少年の母親(刑事)がベットでこの話をするシーンがあるのですが、その時に、この少年は母親に尋ねるのです。「ねえ、まだ少年だったんでしょ。どうして戦うって言った時に王様はそれを許したの?」と。
母親は虚を突かれて「…分からない」って言います。本当にそうではないでしょうか。私たち、この勇ましい話をそのまま受け入れますけれども、よく考えれば、これは危険すぎること、無謀なこと、命の軽視と言えることですよね。でも、それを吞み込んでしまう時や思いが人間にはあるのです。酷い敵との戦いという大義の中で、悪い意味で昇華してしまうと言いますか…。
母親役を演じたシャーリーズ・セロンという著名な女優がインタビューでこんなことを語っていました。「あの時の戦争で、私たちも私たちの国も、彼らをどのような所に送り込んでしまったのか、また帰ってきた者たちも今どのようなものを抱えているのか、分かってはいないのです」と。

そして、私はやはり、旧約聖書の話、このままで終われないなと思いました。ダビデはこの話で、確かに英雄になったと言えるかもしれません。しかし、そういう英雄像って、今もあるなって思いました。どうでしょうか?私たちも「犠牲」になること、これが美しいことなのでしょうか?

イエス・キリストは、私たちに「犠牲」、つまり死ぬことを強いることはなさいません。逆です。ご自分が独りですべてを背負って戦い、そして死なれたのです。神の御子であられる方が、ただお独りで!礼拝の招きの聖句としてヘブライ人への手紙2:14~15を読んで頂きましたがこういう言葉でした。ここに書かれているのは、私たちの救いのためにして下さったイエス・キリストの戦いの内実です。―「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」また、同じヘブライ書5:7~8にはこうも書かれています。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 05:08キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。

あの十字架、カルバリの丘で、弟子たちは皆逃げました。変な言い方かもしれませんが、逃げる道が与えられて良かったと思います。トマスは「さぁ私たちも行って、先生と一緒に死のうではないか」と言いましたけれども、そうならなくてよかったと思います。主が、そうではない道、無謀ではない道、命を保つ道を与えられたのではないでしょうか。この世の中、少年ダビデのように、勇ましい姿で立ち向かい、その結果散っていく。それが賞賛されがちですが、(それが「戦争」かもしれませんが)私は、イエス・キリストによって、そういう時代は終わったのだと信じます。キリストの愛は、全ての人を受け入れ、生かすものではないでしょうか。旧約聖書の時代のダビデは、あのエラの谷で戦いました。あの戦いは冷静に捉えたら、一人の少年を見殺しにするのに等しい話だと思います。この時ダビデは「万軍の主の名によってお前に立ち向かう」と言って勝利しました。ですので、これは当時の信仰の戦いです。しかしこれは私たちが模倣する行為ではないと私は思います。何故なら本当の信仰の戦い、私たちを奪還して下さる霊的な戦いを「万軍の主の名によって」して下さったお方は、主イエスただお独りだけだからです。主は、私たちにも、サタンとの戦いに、勇壮に死ぬまで戦えと言われるでしょうか。言わないと思います。それが出来なかった姿を、聖書は弟子たちの姿として描いていると思います。弟子たちは確かに自分たちのことを情けないと思ったでしょう、あの時捕えられて死んだ方がましだったかもしれないと思ったでしょう。けれども主イエスは、そんな、自分たちの弱さに打ちのめされて閉じこもっている部屋の中にスッと入ってこられて、「あなた方に平安がるように」と仰ったではありませんか。私たちの主はそういうお方です。私たちの信仰は、この主を受けることです。勇ましくなるということより、主の息吹(聖霊)を頂いて、主と共に生きることです。…これから歌う賛美歌のタイトルは「カルバリの丘で」です。何かある意味、「エラの谷で」とは対照的です。「丘」と「谷」、旧約の「谷」から、今、私たちは新約の「丘」の上に立たされている、と言ってもよいのかもしれません。主は、私たちに、真実に「安かれ」ということばを残すためにも、これから頂く「主の晩餐式」も残して下さいました。キリストの血こそが、もう無益に血を流さなくてもよい時代の、神様ご自身の戦いの血です。キリストに抱かれている思いの中で、ご一緒に与りましょう。
お祈り致します。