[サムエル記1章9~20節、26~28節]
さて、シロでのいけにえの食事が終わり、ハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」
ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。」ハンナは答えた。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。ハンナは「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。一家は朝早く起きて主の御前で礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。
ハンナは言った。「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」彼らはそこで主を礼拝した。
今日から旧約聖書の「サムエル記 上下」に入ります。とても興味深い物語が随所に記されています。「聖書教育」誌に準じてですが、今月からしばらく読み進めて行きます。今日の個所は「サムエル記上」の1章のいわゆる「ハンナの祈り」が記されている個所です。この「ハンナ」というのは、「恵み」という意味があるそうです。そのハンナが、誰にも分かってはもらえない人生の苦しみの中で祈り、その祈りを神様は顧て下さって、彼女に一人の男の子を授けられたというのが今日の個所です。その男子は「サムエル」と名付けられました。この名前にも意味があります。彼の登場によって、イスラエルの歴史は大きな転換期を迎えます。
もしかしたらですが、「自分の人生は満たされている」と思っている人は、祈るろいうことはまずしないのではないでしょうか?祈らなくてもやっていけると言いますか(本当にやって行けるかどうかは置いておいて)、祈ることは脇に追いやられます。けれども、今日のこの1章のハンナの姿は、祈らなくてはやっていけない、ある意味、祈りの中へと追いやられている、そういう姿が示されているように思います。彼女にはそう祈らずにはいられないワケがあったということが1章の前半の所を読むと分かってきます。彼女には夫エルカナがいて、その夫との間に長い間、子供は与えられていませんでした。ただエルカナは、もう一人の妻ペニナとの間には子供が与えられていました。そのペニナは、ハンナを蔑むのですね。それは夫はペニナよりもハンナを愛していたということがあったからです。夫は、彼なりの愛情でハンナを慰めるのですが、そんな簡単なことではありませんでした。むしろ、私の深い気持ち・辛さは夫にも分からないという絶望的な気持ちがあったと思います。長年の色々な気持ちもあったことでしょう。彼女にとって、自分の気持ちを打ち明ける場所、それが主の御前でした。10節をご覧頂くと、こうあります。「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」。ハンナは、本当にもう自分は生きていけないんじゃないか、と思う時に、人間の前ではなく、ここだったら泣ける場所を持っていました。「主に祈り、激しく泣いた」。もう、なり振りかまってはいられません。泣きながら、心を注ぎだして神様にぶつかっていった。確かに辛いんです。辛いですが、泣きながら闇に沈むというのではなく、泣きながら主に祈れる。それは幸いなことではないでしょうか。
その祈りは、とても長く続いたようです。彼女は主の宮で祈っていた訳ですが、それに目が留まったのが祭司のエリで、彼女の姿はまるで酔っぱらっているようだったというのです。この時は心の中で祈っていたようですが、体が自然に揺れていたのでしょう。これは彼女の、まるで神様との格闘のようですね。あの創世記でヤコブが神のみ使いと組打ちして「私を祝福してくださるまでは離しません」と激しく関わったあの出来事を思い起こさせます。神様にぶつかっていく祈り。それに神様がどうお答えになるかどうか、それは神様の主権でしょう。けれども神様はロボットではありませんから、そのような私たちとの関わりを喜んで受けて下さるお方だと思います。15節の途中から16節までお読みします。「わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」
ハンナの祈りから教えられる一つのことは、今日招きの聖句(詩編62:9)で読んで頂いたように「あなたの心を注ぎだせ」ということです(哀歌2:9も参照)。フォーサイスというイギリスの神学者は『祈りの精神』の冒頭で、「最大の罪は祈らないことだ」とさえ言いました。私たちが心を注ぎだし、己を差し出し、信頼することを主は待っていて下さいます。
もう一つ、ハンナの祈りから私が今回教えられたことは、「私たちの存在は、神様の賜物」ということです。ハンナの祈りは、神様に顧みられたのです。19節の途中からお読みしますと「主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。」と書いていました。そもそも「サムエル」とは、「願ったので、神が与えられた」というような意味合いがあるらしいです。遡って11節ですが、ハンナは神様にこのような強い祈りをしていたのです。「そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」 これは、子供を与えて下さったのなら、その子をあなたに献げします、ということです。そしてのちに子が与えられ、乳離れが過ぎ、再び主の宮に上った時に、祭司エリにこう語っています。「わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」 皆さん、この言葉をどのように思われますか?サムエルが知らないところでそのように祈られるなんて、彼にとってはいい迷惑な話なとも言えますが、果たしてどうなのでしょう。確かに一つ言えることは、自分の子供であっても、神様との個人的関係というのは、自らが確立していくことですよね。けれど、クリスチャンの親ならば祈ると思います。ここでハンナは、子供に対して無責任になっているのではないと思います。子供の命と成長を神様の手に委ねているのではないでしょうか。愛する子供のことを、ある意味自分で全部してコントロールする、ということからも自由になっているのではないでしょうか。ハンナは、命の与え主は、ただ神様であることを、本当に深く悟ったのではないか。そう思います。そして、それは私たちも同じです。人の「命」の出生というのは、実はなかなか繊細なことだと思います。今は触れませんが、様々な命の誕生の仕方あります。誰でも、人は、生まれてきてから、自分の命のことで悩みます。生きる力を失いそうになることがあります。ハンナ自身、自分が、それこそ生きる意味が分からないような中に置かれて、本当に懸命に懸命に涙ながらに祈ったのちに、神様が顧み、その憐みの中で子サムエルを授かりました。だから「この子は神様の子だ」と、とても素直に思えたということなのかもしれません。ただ、どんな命の始まりの形であっても、神様が「よし」とされない命は無いのではないでしょうか?私はそう思います。これはヒューマニズムではなく、神様との信仰からそう思うのです。命は神様の「賜物」。『賜物』という言葉、いい言葉だと改めて思います。『贈り物』『授かり物』或いは『借り物』という意味ですが、本当に命は、神様のご意思が詰まったプレゼントなのではないでしょうか。ハンナの祈りは、2章にも詩のようになって記されていますので、是非後でお読み下さればと思いますが、実にスケールの大きな祈りです。
昨年ですか、絵本作家・漫画家のやなせたかし氏の生涯をモデルにした『あんぱん』という連続ドラマが評判になりましたが、その毎朝流れる主題歌のタイトルは『賜物』というものでした。野田洋次郎さんがリーダーのバンド「Radwimps」による、ロックテイストな曲でしたけれども、とても歌詞がいいんですね。初めに、人生の悲しみをこう表現します。
―「涙に用なんてないっていうのに やたらと縁がある人生
かさばっていく過去と 視界ゼロの未来」―まるで、ハンナのようです。
そして、最後はこうです。
「時が来ればお返しする命 この借り物を我が物顔で僕ら、愛でてみたり 諦めてみだりに 思い出無造作に 詰め込んだり 逃げ込んだり
せっかくだから 唯一で無二の詰め合わせにして返すとしよう
あわよくばもう「いらない、あげる」なんて 呆れて 笑われるくらいの命を生きよう 君と生きよう」
野田洋次郎さんはクリスチャンではないと思いますが、『賜物』というタイトルをつけたんですね。「時が来ればお返しする命なのだから、懸命に生きて、最後はもうあなたにあげるよ、なんて言って笑われるくらいの命を生きよう」という所は、聴いていて、とても励まされるんです。何て言うんでしょう。私たちは、究極、この命と人生を委ねていけるお方を与えられているのです!
私たちの人生がどのようなものであっても、これからが見えなくても、私たちの命は神様に愛され、許されている命です。そのことを明らかにするために、主イエス・キリストは私たちのためにご自分の命をささげて下さったのではないでしょうか。大胆にこの方に心を注ぎだし、信仰が与えられていること自体の奇跡を噛みしめつつ、日々の生活に押し出されて行きたいと思います。お祈り致します。