[サムエル記下9章1~13節]
ダビデは言った。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」 サウル家に仕えていたツィバという名の者がダビデのもとに呼び出された。「お前がツィバか」と王が尋ねると、「僕でございます」と彼は答えた。王は言った。「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたいが。」「ヨナタンさまの御子息が一人おられます。両足の萎えた方でございます」とツィバは王に答えた。王は「どこにいるのか」と問い、ツィバは王に、「ロ・デバルにあるアミエルの子マキルの家におられます」と答えた。ダビデ王は人を遣わし、ロ・デバルにあるアミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。サウルの子ヨナタンの子メフィボシェトは、ダビデの前に来るとひれ伏して礼をした。「メフィボシェトよ」とダビデが言うと、「僕です」と彼は答えた。「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」とダビデが言うと、メフィボシェトは礼をして言った。「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは。」王は、サウルの従者であったツィバを呼んで言った。「サウルとその家の所有であったものはすべてお前の主人の子息に与えることにした。お前は、息子たち、召し使いたちと共に、その土地を耕して収穫をあげ、お前の主人の子息のために生計を立てよ。お前の主人の子息メフィボシェトは、いつもわたしの食卓で食事をすることになる。」ツィバには十五人の息子と二十人の召し使いがいた。ツィバは王に答えた。「私の主君、王が僕にお命じになりましたことはすべて、僕が間違いなく実行いたします。」メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデの食卓で食事をした。メフィボシェトにはミカという幼い息子がいた。ツィバの家に住む者は皆、メフィボシェトの召し使いとなった。メフィボシェトは王の食卓に連なるのが常のことであり、両足とも不自由なので、エルサレムに住んだ。
よく「背中を押される」という表現をしますね。ちょっと元気を失ったり、うつうつとなってしまったりするような時に、誰かの声や励ましが一歩前に進ませてくれると言いますか…。それは、必ずしも生きている人によってだけではないようですね。最近読んだ新聞のコラム記事にこのようなことが書かれていて、あぁ、本当にそうかもしれないと思わされました。こんなコラムです。
脳科学者の田中昌司先生という方が、井上ひさしの戯曲『父と暮らせば』を引用しているのですが、原爆投下後の広島で、生き残った罪悪感に苦しむ美津江という女性がいて、図書館で働いています。沢山の者が死んだが、自分はこうして生きている。考えると暗い気持ちに入り込んでしまうのです。そこに、父親・竹造が声をかけてきます。「あよなむごい別れがまことに何万もあったちゅうことを覚えてもらうために生かされとるんじゃ。おまいの勤めとる図書館もそよなことを伝える所じゃないんか。」美津江はハッとします。更に声が続きます。「人間の悲しいかったこと、楽しいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろが。」と、ちょっと怒ったような、それでいて包み込むような愛を感じる声が美津江に届いて、それが美津江が生きていくために背中を押した訳です。実は父親の竹造は、既にこの世を去っているのです。あの原爆投下によって。そして、田中先生はこう書かれていました。―「人は深い喪失体験をした時、亡くなった人との記憶を過去として封じ込めるのではなく、現在の自己を支える“内的他者”として、心の中に保ち続けます。人は、亡くなった人のことを「過去」として忘れることではなく、「記憶とともに生きること」が出来る、と書かれていました。
今月は8月で、“戦争”ということのみならず、8月半ばはいわゆるお盆の季節にもなっていて、今は亡き人のことを懐かしむといいますか、対話するような、そんな時間がいつもより多く与えられる、そんな月と言えるのかもしれません。そしてそれは、過去を回顧するだけでなく、今を生きるために「背中を押す」ということにもなるのだなと思うのです。
今日の聖書個所サムエル記下の9章にも、そんなことを思わせる話が出て参ります。竹造ではありませんけれども、もう死んでしまった人としては「ヨナタン」という人物がいます。そして、そのヨナタンの子供の一人で「メフィポシェト」という人物が出て来ます。さて、ヨナタンは、第二代目のイスラエルの王ダビデにとっては、単なる友以上の友でした。なにしろダビデは、嫉妬にかられた前の王様サウルから執拗に命を狙われ、殺されかかっていたのです。そんなダビデを身を挺して守っていたのが、ヨナタンでした。これはある意味王に対する反逆です。ヨナタンというのは、サウル王の息子なのです。本来ならば、イスラエルの第二代目の王になってもおかしくない立場でしたけれども、自分はとてもそんな人間ではない、むしろ、ダビデの方が王にふさわしいと思い、本当にダビデを敬い、愛して、父であるサウルの手からもダビデを救ったのです。そして、二人は契約(約束)を交わすのです。それがサムエル記上の20章に出て来ます。これはサウルがダビデを襲うに違いないという情報が入った切羽詰まった場面でなされた約束です。20:13~15です。―「父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように。主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。そのときわたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれるときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに断たないでほしい。」 ―その後、決定的にヨナタンがダビデをサウルの手から逃げるようにした後にはダビデにこう語りました。42節です。「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」
これが、今日のサムエル記下9章の伏線というか前提になっています。この時はもうダビデが全イスラエルの次の王になっています。つまりダビデは一番の権力を持つ人間になりました。人間は権力を握ると傲慢にもなり、それゆえに失敗もしてし、まわりをも巻き込んでいくということが起こりますね。ダビデも一人の人間であり、過ちも犯します。そのことについては9月に入ってご一緒に見ることになりますが、今日の所では、ダビデがどこまでもヨナタンとの契約を重んじるということを貫いているという場面です。
サムエル記下9:1からお読みします。もう既にここではサウル王も死に、ヨナタンも他国との戦いで死んでしまっています。「ダビデは言った。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい。」 ―そこで、ツィバという元サウル家に仕えていた者が呼び出され、彼にもダビデは尋ねました。3節。「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたいが。」 先ほども、そしてここにも「忠実を尽くす」という言葉が出て来ました。これは、ある意味ダビデにとっては、大きなチャレンジでもあったと思います。何故なら、サウル家一族というのは、自分を無き者にしようとした者たちですから、権力を持った者は、そんなことは言わないというのが普通の筈です。でもダビデは、自分を殺そうとしたサウルに拘るのではなく、自分を救ってくれたヨナタンとの契約を履行することだけに心を向けたのです。先ほど3節にこうありました。「神に誓った忠実を尽くしたい」。そうなのです、ダビデは自分の思いに駆られる、というのではなく、神様がして下さったことを重視しているのです。
「サウル家には、もうだれも残っていないのか」。その問いに、一人いたのです。「ヨナタン様のご子息がひとりおられます。両足に萎えた方でございます」。この人がメフィポシェトでした。メフィポシェトが足が非自由な理由は、サムエル記下4章にありまして、まだ彼が5歳の時、乳母が、サウルとヨナタンの訃報を聞いた時、逃げようとして抱いていたメフィポシェトを慌てて落としてしまったという不幸な出来事があったからなのです。彼はヨナタンの息子であり、つまりサウルの孫なのです。その孫メフィポシェトが、まだ一人残っています、という訳です。この足の不自由なヨナタンの息子に対し、ダビデはあり得ないような待遇を与えるのです。7節からお読みします。「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」とダビデが言うと、メフィボシェトは礼をして言った。「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは。」
サウルやヨナタンに続いて死んでいてもおかしくなかったメフィボシェトです。けれども、ダビデの、ヨナタンとの間で交わした約束がそれを許さなかったどころか、ずっと私と食卓を共にしてほしい、というのです。これは正にメフィボシェトにとっては「恵み」でした。先ほどの「忠実」というのは「ヘセド」と言う言葉で、神様の憐みの深さをいう言葉ですが、新約では「カリス」、神様の恵みを指す言葉に等しいです。
そうです。神様の「恵み」というのは途方もないもので、私たち、これまでどんな歴史を背負っていたかに全く拘わらず、誰もがその神様の懐に招いているのです!「まだ残っている者はいるか、残っているなら、わたしの許に連れて来なさい」。主イエスも「小さい者がひとりでも滅びることは、あなた方の天の父のみ心ではない」(マタイ18:14)とおっしゃったではないですか!ダビデは、既に亡くなっているヨナタンの間でなされた契約を忘れることがありませんでした。それは神が与えた、命を賭けた契りです。その契り・約束の故に、メフィポシェトは救われたといって良いです。
これは、私たちにとっても同じではないでしょうか?メフィポシェトは、ダビデに招かれた時に「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしです」と言いましたね。私たち、誰もがそうではないでしょうか?「死んだ犬」。けれどもダビデは、そんな言葉は無視し、メフィポシェトを迎えたように、主イエスは、罪人である私たちを喜んで迎え、むしろ晴れ着を着せ、神様の食卓に招いて下さっているのです。あの十字架で流された血による契約は、歴史を超えて今私たち一人ひとりを招き、そして「生きよ!」と背中を押して下さっている。私たちも時に、今は亡き愛する者の愛や優しさがそれこそ“内的他者”となって力になっていることもあると思います。そして、それにも優って、いや、私にはそんな存在はいないんだと言いたくなる場合でも、あの十字架で死んでくださった主が、今も、対話をして下さる復活の主として、私たちと共におられるということ、そして、この方の約束は真実であるということ、その事実に「アーメン」と言いたいと思います。
お祈り致します。