[サムエル記下12章1~9、13~15節]
主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。
「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」ナタンは自分の家に帰って行った。主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。
私たちは自分たちの生き方として、「道徳的でありたい」と思っている所があると思います。もちろん初めから「不道徳でありたい」と思う人はいないと思います。私たち、きっと小さい時から“道徳的”とか“真面目である”ということを教育もされ、またそのことを一つの軸として生きているような所があると言っても良いかと思います。そしてかつて私は「聖書」を読むということも、そのことを後押しすると言いますか、そういう生き方を支えるために、キリスト教徒たちは聖書を開くのだと思っていました。しかし、それは誤解でした。私が「聖書」に触れ始めたのは19歳でしたけれど、教会に通い、皆と聖書を読む内に、聖書は道徳の書であるとか、そんな単純なものではないな、ということが分かってきました。
聖書の人間観。それは、人間は正しく生きようとしても、正しく生き切れない弱さを持っているのだ、ということを示しているように思います。人間は、例えば天使のように真っ白じゃない。かと言って、悪魔のように真っ黒でもない、いわばグレー、白と黒が混じりあう「灰色」の存在である、ということを示していると思うのです。そして、その「灰色」のまま人間は“愛されている”存在なのだ、ということを聖書は語ってくれているように思うのです。そして、そういうことが最もよく示している聖書のエピソードの一つ、それがダビデの大きな過ちとその赦し、というストーリーだと思います。
ダビデは当時のイスラエルの王様です。イスラエルの旗は「ダビデの星」というのがモチーフになっています。ダビデは、イスラエルの歴史上、最重要人物の一人。しかし聖書はそのダビデの愚かな行為を容赦なく書き記します。そのストーリーはサムエル記下の11章に詳しく載っていますので後で読んで頂ければと思いますが、ダビデ王としては隠しておきたいような恥ずべきことで、事実、隠し通せると思っていたことでした。どういう事柄でしょうか?―ダビデは自分のもとで兵士として働くウリヤの妻バト・シェバという女性をウリヤの留守中に誘って奪い、そののち彼女が妊娠したことが分かると、夫ウリヤを、他国との戦いの最前線に送り出して結果的に殺させたという話。とても嫌~な話です。
ここで、私たちは思いますね。「こんなことをしでかした人間は、王と言えども許されるはずがない。思い刑に罰せられて当然だ」と、私たちの道徳心が叫びます。
そして、今日の個所サムエル記の12章は、見方によっては大逆転劇です。ある意味、理屈が通らない、私たちの自然な感情さえも超える、神様にしかできないことがここで起こっているのです。ちょっと11章の最後の部分を読んでみたいと思います。11:26~27です。「ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を産んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」
ダビデはこの時、自分は隠し通せたと思っていたのかもしれませんし、また、良心の呵責のようなものに時折苛まれていたのかどうか分かりませんが、私はこの時期のダビデの心は、あぁ上手く事が運んで良かった、というような単純なものではなかったと思います。むしろ、自分自身しか分からない罪や苦悩を彼は背負っていたのではないかと思います。ダビデがこの一連のことの中で書いたと言われる詩編51編の中で、彼は5節でこう言っています。「わたしの罪はつねにわたしの前に置かれています」。―シェークスピアの「マクベス」の「手」ではありませんが、洗っても洗っても、罪の故の手のひらの血がこびり付いたままなのです。
12章で、神様はそのダビデに ナタンという人物を遣わします。ナタンは、預言者。神の言葉を預かり、それを言われたままに伝える役割を担う者ですが、ダビデの所に生き、何を語ったかというと、面白いですね、物語(譬え話)を語ったのです。長くないので改めて読んでみます。―「ナタンは来て次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」 呆れるくらいひどい話です。貧しい男に対して、裕福な男は全く人間扱いしないどころか、その貧しい者が可愛がっていた一匹の小羊さえ取り上げ、客の食料にしてしまったと言うのですから。…続いて12:5~9節を読むとこうです。―「ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。』
「その男はあなただ」とナタンに指摘されたこの時のダビデの心情を想像します。もう言い訳は通用しません。いや、いくら言い訳をしても、このやってしまった行為はマクベスの手の血のように消えないのです。きっとダビデの喉はカラカラに乾いてしまっていたに違いありません。私たちも内容はどうあれ、自分でもなぜあんなことをしてしまったのか分からない出来事を起こして、申し訳なくて、いたたまれなくて、自分がひどく惨めで、かと言って元には戻らず、もう消えてしまいたい思いに駆られるという経験をすることはないでしょうか?ダビデはこの時、消えてしまいたいと思ったでしょう。自分もろとももうおしまい=ジ・エンドにしたいと思ったかもしれません。周りの痛い視線や自分を裁く言葉を浴びながらこれからずっと生きなければいけないのなら、もう消えてしまいたいと。しかしそうではありませんでした。幸いな事だと思います。このナタンの譬え話を通して、ダビデは、自分の弱さ、また、隠していた罪を見つめることが出来たのです。これは不思議です。私はいつも思うのですが、いわゆる“物語とか映画、また音楽や絵画”といったアートや作品が自分の心に語って、それが「光」となり、それが癒しとなるということを私たちも経験するではないですか。神様がそれらを用いるのだと思います。消えてしまいたい!と思っていたかもしれないダビデの心もこの時、暗い闇の方向ではなく、「前に」向かうことが出来たのです。
13節からまたお読みします。「ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」ナタンは自分の家に帰って行った。」
これから痛みは負わねばなりませんが、けれどもダビデは赦されたのです!なぜ赦されたのか?神様の前に悔い改めをしたから。そうとも言えますが、私はそういう条件付きで赦すというよりも、神様の心は赦したくてしょうがないから赦されるのだと思うのです。おかしいでしょうか?けれども神様は「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない」と言われる神様なのです。エゼキエル書33章にある言葉です。私はこの言葉はとても好きです。そして、人間になられた神・イエス・キリストの心がここに集約されているように思うのです。
先ほども申しましたが、私たちの心は白と黒が混じり合うグレーです。グレーのグラデーション…。多くの者がいわゆる宗教を敬遠するのは、白と黒をハッキリさせようとするからだと思います。私たちは、神の創造されたスペシャルな尊い存在。と同時に、誰かに対しても、自分に対しても「お前は滅びよ」と呪いの言葉さえ吐いてしまう毒を持った存在です。ダビデも、一面詩人でもある、人に寄り添える人間であると共に、誘惑に負けたり、残酷な心をも宿している、どこまでも罪人です。しかし、そういう存在に対し、「主があなたの罪を取り除かれる」と言われているその言葉をこそ、私たちも聞き取りたいと思います。その言葉は、お互いに裁き合わない関係を作る促しでもあり、また私たちの関係性へのチャレンジだと思います。私たち、「お前は結局ダメじゃないか」という言葉を聞きすぎていると思います。でも、神様の愛を知らされている私たちは、周りの声など気にしなくていいのです!誰が何を言おうと、あなたは愛されているし、どんなことがあってもあなたは赦されている。神様は、私たちの所にイエス・キリストを送って下さって、「さあ、一緒に生きよう」と言って下さっているのです。主が一緒に生きて下さっているなら、「恨み」や「比較」からも自由にされて、お互い、欠け多き愛すべき者として前に向かって行けるはず。これまでのことはこれまでのこと。神様は新しく生きる風を私たちに運んでくれます。ダビデもきっとそうであったように、み言葉を通し、天からの風を毎日受けてゆきたいと思います。お祈り致します。