[サムエル記下16章5~14節]
ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」
ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。」王は言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう。」 16:11ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」 ダビデと一行は道を進んだ。シムイはダビデと平行して山腹を進み、呪っては石を投げ、塵を浴びせかけた。王も同行の兵士も皆、疲れて到着し、そこで一息ついた。
18世紀の著名な神学者ジョン・ウェスレーという人がこういう言葉を残しています。「神が共にいるということ。これよりも幸いな事はない」。「アーメン」と、私たちクリスチャンは言えると思います。けれども今朝、敢えてその深みへと一緒に入り込んでみたいと思うのです。私たち、「神様が共におられる」ということを、いつも感じ、そのことを喜んでいるでしょうか?意外と(?)日常の中でそのことは忘れていると言いますか、殆ど実感していないことの方が多いのではないでしょうか?私だけでしょうか?「あぁ、神様が共にいて下さる(下さった)」と思える時というのは、何か危機から守られたような経験をした時が多いのかもしれません。それはとても幸いな事です。ただ聖書は、その逆の時と言うか、必ずしも人生の問題が解決していない時や、一体これはどういうこと?と思える時にも、私たちはそう言えるのだ、ということを語っているようにも思うのです。
今日の聖書の個所は、『聖書教育』によるとサムエル記下16章5節以下です。ダビデは今、王として大きな試練の中にいます。前の章のサムエル記下15章を見てみると、何と息子のアブサロムが、クーデターのような感じで王ダビデを出し抜き、自分こそが新しい王なのだと、むしろ父ダビデに迫ってきました。しかも、多くのイスラエルの人々の心はアブサロム(彼は背も高くハンサムだったようです)になびいて行き、ダビデは身の危険を感じ、都エルサレムから逃げて行かざるを得なくなりました。16章はそのダビデ一行の逃避行の途上での出来事です。16:5~7を見てみますとこうあります。「ダビデ王がバフリムにさしかかると、そこからサウル家の一族の出で、ゲラの子、名をシムイという男が呪いながら出て来て、兵士、勇士が王の左右をすべて固めているにもかかわらず、ダビデ自身とダビデ王の家臣たち皆に石を投げつけた。シムイは呪ってこう言った。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、主は報復なさる。主がお前の息子アブサロムに王位を渡されたのだ。お前は災難を受けている。お前が流血の罪を犯した男だからだ。」
ダビデは今、息子アブサロムとその取り巻きに命さえ狙われている。それだけでも大きな苦しみです。家族が敵になっているのですから。しかもその逃避行に追い打ちをかけるようにして、シムイという男が、ダビデや家臣たちに石を投げつけながら言葉で呪った、というのです。これは嫌だったでしょうね。“呪いの言葉”です。私たち、もしも誰かからあからさまに、例えば「お前なんかいない方がいいのだ。とっとと去れ、顔も見たくない!」と言われたらどうでしょう。かなりこたえると思います。これは正に「ヘイトスピーチ」ですね。言わば「あんたなんか顔も見たくない」宣言ですね。ヘイトスピーチとは、言わば呪いの言葉です。言葉だから「言の葉」のように軽い?いいえ、言葉というのは、言霊(ことだま)と言われるくらい、深く存在に関わってくるのです。誰かの言葉がずっと離れずに人格が蝕まれること、死に追いやられることさえありますよね。人は弱いのです。陰で酷いことを言われるのもこたえますけれど、面と向かって毒を吐かれるというのは、実は、心に深く矢が刺さるようなことなのではないでしょうか?
私たちが時々思い起こす慰め深い御言葉の一つ、それは今日の礼拝の「招きの聖句」で読まれた言葉であるという人も多いと思います。―「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 この御言葉はホッとします。人生には、確かに試練はあるけれども、また“逃れる道”をも神様は与えて下さるのだという約束の言葉。私たちも、きっとこれまで多かれ少なかれそういうことを経験して信仰生活を生きてきたと言えるのではないでしょうか。「あぁ、神様は私を守って下さった」。…ところが今ダビデは、その“逃れる道”の途上にあっても、尚つらい目に遭っている訳です。もう“踏んだり蹴ったり”です。このシムイという人物は、前の王サウルの一族だったとあります。仕えていたサウルは死に、ダビデが今王であることが許せない彼は、投石しながら呪っている。
さて、このような呪いの言葉を浴びせられたダビデですが、ダビデの態度がとても印象的です。16:9以下を読みますと「ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「なぜあの死んだ犬に主君、王を呪わせておかれるのですか。行かせてください。首を切り落としてやります。」王(=ダビデ)は言った。「ツェルヤの息子たちよ、ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから、『どうしてそんなことをするのか』と誰が言えよう。」ダビデは更にアビシャイと家臣の全員に言った。「わたしの身から出た子がわたしの命をねらっている。ましてこれはベニヤミン人だ。勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」
この、踏んだり蹴ったりの試練の中でのダビデの信仰、これは私たちにも大きな挑戦だと思います。ダビデは言うなら、シムイの呪いさえ神から来るものとして受け止めている。これは凄いと思う。ダビデはシムイの呪いに対し、呪い返すことは一切せず、この呪いの言葉を甘受します。アビシャイの「報復しましょうよ」という声には「ほうっておいてくれ。主がダビデを呪えとお命じになったのであの男は呪っているのだろうから」と言い、更にアビシャイと家臣全員に対し、「勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。」と言い切っています。ダビデは、この逆境の中に、神の計らいを感じているのです。その背景には、恐らく、これまでの彼の失敗や愚かな行為を想起させられるということもあったと思います。バト・シェバとの不倫、その夫ウリヤを死に追いやったこと、また生まれてきた子供が死んだことなどです。ダビデはとても冷静です。自分だったらどうだろう?私だったらもう自暴自棄になってしまっているのではないか。「さぁ、殺してくれ!」と開き直ってそれで終わりになってしまうような気が致します。
同じような、逆境を冷静に“神の計らい”として受けとめている女性がいます。「ルツ記」に出てくる、ルツの義理の母であるナオミです。彼女は夫に先立たれ、その後故郷ベツレヘムに帰ってきた時に仲間にこう言いました。「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです」また、 「主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされた。」…ダビデにしてもナオミにしても、自分の逆境の背後に、神様のご計画を見ているのです。「もうこんな酷いことをされる神様に信仰を抱くことなど出来ない。そもそも神様なんていない」とは言わないのです。ナオミはわざわざ、全能者がこういうことをしたのよと、ある意味、余裕をもって言い、ダビデは、ヘイトの声を受けながら、「主が呪えとお命じなったのだ」或いは「勝手にさせておけ。主のご命令で呪っているのだ」と、冷静に自分の身に起こっていることを受け止めています。…私は、これが、信じる者、主に寄り頼む者の逞しさなのではないだろうか、そう思えてなりません。
けれども最後に一つ申し上げたいことは、この信仰は、「それでは歯を食いしばって、頑張って強い信仰者になるぞ!」ということではないということです。自分の力だけで神様に従って行く、それがキリスト教信仰ではないです。旧約聖書のダビデの信仰も、ナオミの信仰も、新約聖書のイエス・キリストのお姿を先取りしたものと言えると私は思います。イエス・キリスト。それこそ人々からののしられ、ののしられ、それで何一つ恨み言を返すどころか、人々のなすがままに身をお任せになられました。それが、主イエスを遣わされた神様の御旨だったからですよね。それこそ、この世に「恨み」や「呪い」というものがあるのなら、私がそれを全部背負っていくよと、十字架で私たちの罪や弱さを全部ご自分の身に引き受けて下さった方、それが主イエス・キリストです。
主イエスは、人間の「罪」や「悪」を甘んじて受けて下さったお方であり、それ故、人間のありとあらゆる試練をご存じのお方です。最初にジョン・ウェスレーの言葉をご紹介しましたね。「神が共にいるということ。これよりも幸いな事はない」。実はこれはこの言葉の前に「神は私のような罪人にも情け深かった」という言葉があり、そしてこの言葉が続いているのだそうで、この言葉は、どうもウェスレーが臨終の際に語った言葉とのことです。「神様が共にいる」。普段、私たち、それを実感出来ているかと言えばそうではないのではないかと思います。でも、わたし、それでもいいと思うのです。私たちが神様に支えらえているというのは、自分の実感を超えていると私は信じています。もちろん、聖書を読む時、ああ、主が語って下さったなぁと嬉しくなることが起こりますね。これは本当です。けれども色んなことでそれが出来なくなったとしても、或いは「どうしてこんなことが?」と、意味が見出せないような時にも、また、自分が最期を迎えるようなその時にも、主イエスは共にいて下さるのだと信じましょう!ウェスレーが臨終で深く信じたように。そう、順境な時も、又、逆境と思える時も、この私自身を全くお委ね出来る方がおられるということ、これに優る幸いはないではないでしょうか!逆境、上等です! お祈り致します。
神様、この日も皆と一緒に礼拝を捧げることが出来てありがとうございます。私たちは、人間となって下さった主イエス様、この方にすがり、嘆くことが出来ることを思います。ありとあらゆる試練を経験された主が私たちを愛し、赦し、共に生きて下さる。そのことを聖書から教えられ、感謝いたします。その中で、あなたの愛の計らいを信じてこの人生を生かしてくださいますように。主イエスの御名によってお祈り致します。アーメン。